茹でガエルになりかけている社員を目覚めさせるのは、それほど難しいことじゃない。ビーカーの中に、蛇を放てばいい─。
現会長の小林喜光からそう勅命を受けた越智仁は、2015年4月、社長に就任するや否や、行動を始めた。日本最大にして世界有数の化学メーカー。グループ企業約730社、従業員約6万9000人、売上高およそ3兆8000億円になる三菱ケミカルホールディングス(三菱ケミカルHD)が、巨大なビーカーの中で「茹でガエル」になりかけているとすれば、このビーカーから社員を四方八方に飛び出させるほどの「大蛇」はどこにいるのか、それを探す旅を、始めたのだった。
2年後の今年4月、三菱ケミカルHDに、一人の役員が加わった。ラリー・マイクスナーCIO(チーフ・イノベーション・オフィサー)兼CTO。それは小柄な越智がアメリカから連れてきた、2mもあろうかというほど長身の、グレーの目をした参謀だった。マイクスナーが率いる「先端技術・事業開発室」は、三菱ケミカルHDに、“イノベーションを起こす”目的のために、社長直轄で新設された組織だった。
同チームには、さらに外部から3人の参謀が加わった。全員、越智が直接会い、口説き落とした。元日本アイ・ビー・エムの基礎研究所所長で、日本の情報処理研究の第一人者とも言われる岩野和生がCDO(チーフ・デジタル・オフィサー)、政府系ファンドの産業革新機構で、先端技術ベンチャー企業への支援と協業を担当してきた市川奈緒子がCMO(チーフ・マーケティング・オフィサー)、キヤノンで医療用イメージング推進プロジェクトのチーフだった森崇が、新たなヘルスケア事業の創出を所管する執行役員に就いた。
マイクスナーの前職は、米国ワシントン州にあるシャープの研究開発部門Sharp Labs of America社のトップだという。少し気になり、越智に聞いた。「先端技術・事業開発室」は、化学メーカーのイノベーション推進部門でありながら、化学業界出身者が一人もいないのは、なぜか、と。
「今、誰もが世界が変わっていることを感じているでしょう。ITからIoTの時代になり、新しいテクノロジーが次々に世の中に入ってきて、人々の生活のあり方が、毎年、変容している。しかし一方、われわれの産業におけるR&D(研究開発)、生産、販売の変化のスピードは、これとは全くレベルが違う。この事業のあり方を今、ガラッと変えなくては、勝てない。それは、化学産業の中で育ってきた人間だけでは、無理なんですよ」と越智は言い切った。
事業のあり方の変容について一例を挙げると、近年、同社が推進してきた、ビジネスの垂直連携である、最終メーカーとのインテグレーションがある。
トヨタ自動車は今年2月、「プリウスPHV」のバックドアの構造部材に、同社の「炭素繊維強化プラスチック」(CFRP)を採用した。トヨタが量産車にCFRPを採用したのは初めてのことだ。自動車メーカーとの協業範囲は、ガラス繊維複合材、植物由来プラスチックなど幅広い。同社は今後、こうした協業を増やし、昨年度の自動車関連売り上げ3000億円を、20年度までに4200億円にする計画だ。
「素材メーカーはひたすら、高機能の“新しい”素材を開発する。次にその素材を“安く”する。生活消費財などのメーカーがそれらの素材を使って独自に商品開発する。そんなのんびりしたプロセスが通用する時代はとうに終わった」と越智は主張する。いかにユーザーに新しい価値を提供するのかが問われる時代に、プロダクトアウトだけで生き残れるほど甘くはないという。
新チームの4人は、各々に動き始めた。岩野は外部から10人ほどのデータサイエンス等のスペシャリストを採用してチームを編成。国内の事業所や研究所を自分の足で回り、経営資源の棚卸をするとともに、4つのステップで70項目に及ぶTo Doリストを作成しているという。
LED照明、自動設備を導入した完全人工光型植物工場がオープン。
越智からマイクスナーが求められているのは、三菱ケミカルHDのイノベーションカルチャーを変えること。意地悪い言い方をすれば、財閥系の、古い産業の、巨大企業という、日本の大企業病の三大要因をすべて抱えたような会社に、新時代のイノベーションカルチャーを生み出すことが、本当にできるのか。