そうした気持ちは、遠く離れたインドの地でも同じだったが、その不安が向けられた先は大きく違っていた。インドではこの日、ナレンドラ・モディ首相の指示によって、それまで流通していた高額紙幣が突如として廃止になったのだった。
練りに練ったであろう戦略だった。対象となったのは、1000ルピー札(約1700円)と500ルピー札の2種類。廃止を発表したのは実施のわずか4時間前で、モディ氏自らがテレビ演説で明らかにした。米大統領選にぶつけることでニュースバリューを相対的に低下させ、ルピーの信用低下を防いだともささやかれる。
事前に秘密が漏れることはなく、不意打ちのような施策に人々は衝撃を受けたものの、モディ氏の「50日耐えてくれれば、経済は正常に戻る」という訴えに耳を傾けた。私が当時抱いた「銀行が焼き討ちに遭うのではないか」という懸念は幸いにも杞憂となり、新紙幣は徐々に流通していった。
2016年11月、銀行に並ぶ長蛇の列
それから1年。新紙幣への両替を求めて銀行前に人々が長蛇の列を作ったことは、もはや過去の話となり、モディ氏の言うとおり、経済は「正常化」したように見える。
だが、果たしてそうだろうか? 現金決済が主流だった慣習や、それに基づいた生活スタイルが急変するはずがなく、高い経済成長にはややかげりが見え始めている。「改革派」として内外からの注目を集めるモディ氏の政治手法は、遠目からは極めてアグレッシブに映るものの、近づいてみるとさまざまなほころびが目に入る。
「仕事が見つからない。生活するにもお金がないからどうしようもない」
10月下旬、首都ニューデリーから車で1時間半ほどの距離にあるウッタルプラデシュ州ノイダ。大通りの脇道で立ち話をしていた4人の女性に話を聞くと、1人がうんざりした表情で答えた。
女性たちは、いずれもノイダにある工業団地で衣料品の製造に携わっていた。だが、昨年11月の高額紙幣廃止により、生活は一変した。現金決済をメインとしていた衣料品業界は、一気にカネの流れが悪くなり、解雇者が続出した。
衣料品業界は労働者が組織化されておらず、実際の解雇者が何人にのぼったかはわからない。だが、民間会社の調査では、今年1月から4月に失われた雇用は約150万。地元メディアの報道では、高額紙幣廃止以降、製造業と貿易関係で35~55%の雇用損失が出ているという。衣料品業界などで働く労働者は、その多くが社会保障から遠い存在にあり、収入源が断たれると一気に絶対的な貧困へと転落していくしかない。
そうした状況は、男性も同じだ。ノイダの建設現場で働いていた男性は「月収は8000ルピーほど。(高額紙幣廃止の)前は1万4000ルピーはあった。家族5人で食べていくだけで精いっぱいだ」と話す。男性は、雇用主の指示で銀行口座を開設した。だが、仕事と収入が減って「預金するカネがない」状態だ。