もちろん、新しい情報技術が、クラスター化やターゲット化を通じて、金融サービスや経済・社会活動のフロンティアを拡げることもある。例えば、志を共有する人が、真に必要な先に確実に支援や資金を届けるチャリティやクラウドファンディング、移民や女性なども迅速に与信を受けられる信用スコアリング、子育てや介護をしながら自宅で働けるリモートアクセス、保険スキームを通じた健康増進や安全運転の推進など、さまざまな可能性が生まれている。
しかし、その一方で、情報技術革新が、むしろ疎外や“exclusion”を助長する方向に働く可能性も考えられる。例えば、なるべく資産や健康などに恵まれた人々だけで国や社会や集団を作る方が経済的に「得」だという考え方は、少なくとも短期的には魅力的に映りやすい。そして、新しい技術は、そうしたクラスターを効率的に作るためにも使えるのである。
「疎外」を乗り越えるには
鉄器からダイナマイト、原子力に至るまで、古今東西、科学技術をどう使うかは、常に人間次第である。「ブレードランナー」が描いたのも、アンドロイドを反乱に追い込んだ人間の罪、そして、そうした人間にアンドロイドが最後に示した寛容であった。暴走するのは技術ではなく、これを使う人間なのである。
今、AIなどのイノベーションに対し人間が抱く、「仕事が奪われる」、「丸裸にされる」といった不安も、突き詰めれば、それは技術そのものへの不安ではなく、それを使う人間への不安、すなわち、「人間自身が新技術を、人間疎外を推し進める方向に使ってしまうこと」への危惧であるように思える。
そうだとすれば、イノベーションへの不安を取り除くには、人間の側が、クラスターや分断を乗り越える寛容さと多様性への理解を深化させていくしかないだろう。もちろん、現在の世界情勢をみても、それは大いなる努力と忍耐を伴う作業だが、人間の問題なら、人間が解決できると信じたい。