目玉はホテル内で行われるシェフのポップアップレストランだ。そして、7日間にわたって行われた計19回のゲストシェフイベントの中でも、いち早く”Sold out” の札が貼られたのが、石川県・金沢の料亭、銭屋のものだった。
タイでも人気の高い日本食。可処分所得の増加も相まって、本格的な寿司店もここ数年増えてきた。
今回のイベントでは、アナンタラサイアムホテル内の人気の日本食「Shintaro」が銭屋の会場となった。地元の食通たちで満席のテーブルの間に、銭屋の2代目、高木慎一朗が挨拶に立った。190cmの長身。しかし、「私が見た中で、一番背の高い日本人シェフです」と紹介したホテルスタッフは、おそらく「私が見た中で一番英語が流暢なシェフです」と付け加えるのを忘れていたに違いない。
マイクを持った高木は、「その土地に合わせた料理を作るのが日本料理。ここでしか食べられない料理を出します。日本料理には“出会い”という言葉があります。季節の始まりのものと終わりのものを一皿に盛り込むことで、季節の移ろいを感じてもらうものです」と自身の料理のスタイルをわかりやすく英語で説明した。
ディナーの前に行われた、デモンストレーションでは、巧みな英語と話術で世界各地から集まったメディアを引き込んだ
今年2月には農林水産省の日本食普及の親善大使にも選ばれ、海外の三ツ星店でコラボレーションディナーを行うなど、海外からのオファーが引きも切らない。しかし、高木にとって「料理人」というのは、決して憧れていた職業ではなく、むしろ、その逆だった。
古都・金沢で、父が一代で興した料亭の長男として生まれたが、料理好きの弟が店を継ぐものだとばかり思っていた。高木自身は、高校時代はロックスターに憧れ、バンド活動に明け暮れた。ミュージシャンになるのが夢だった。
外の世界に憧れて、16歳の時にニューヨークに1年間語学留学にも行った。映画「007」のジェームズ・ボンドのセリフを必死に覚えて口説いたブロンドのガールフレンドに、150本のバラの花束を贈ったこともあるロマンチストだ。毎日厨房にこもって過ごす料理人ではなく、世界を股にかけて活躍する未来を描いていた。
金沢に戻ってからも、料理屋を継ぎたくない一心で、東京へ。料理とは全く関係のない学部をと、日本大学の商学部に進学する。
そんな人生に異変が訪れたのは大学1年生の時。父が、急逝したのだ。弟はまだ高校生。高校を卒業してから調理師学校に入ることになっていたが、それを待つ時間はなかった。「自分が、継ぐしかない」。大学を卒業するとすぐさま京都の吉兆に2年間の修業に行き、1996年、26歳で銭屋を継いだ。
とにかく、最初のうちは店を守ることに無我夢中だった。そんな時期が過ぎ、「俺はこのまま厨房に閉じこもって終わるのか」そんな疑問を感じ始めた2009年、フランス料理の重鎮、アラン・デュカスが率いるフレンチレストラン「ベージュ東京」から、コラボレーションの話が舞い込む。