米作家エリザベス・カリッド-ハケット氏の著作「The Sum of Small Things: A Theory of the Aspirational Class」によると、昨今、米富裕層の消費スタイルが変わり、家事サービスなどを利用して時間を生み出し、「オペラに行ったり、旅行に行ったり」しているといいます。
ところで、なぜここで真っ先に「オペラに行くこと」が挙げられるのか疑問に思う人も多いのではないでしょうか?
西欧では、貴族が力を持っていた時代から、功成り名遂げた人物は教育・健康・芸術に心を砕くのが社会的尊敬を勝ち得る条件でした。つまり、高潔な精神のあり方の発露として、パトロン活動があるとみなされていたのです。それは今も変わらず、だからこそ社会的エスタブリッシュメントはこぞって病院、学校、芸術への寄付を行い、自身の高潔な精神を見せるわけです。
ことに、芸術に関心を寄せ、寄付をすることは、そこにその人の価値観や趣味が現れるという点でも重要とされています。その対象として、オペラは別格。オペラの知識がないと「この人は芸術を知らない」と見なされるエリートの条件であることから、この本でも最初に「オペラに行ったり」と象徴的に書かれるのです。
では、なぜ芸術の中でもオペラが特別なのか? それにはいくつかの要因があります。
まず、オペラを成り立たせる上で最も重要な楽器、歌手が奏でる声楽の位置付けです。讃美歌に象徴されるように、ヨーロッパでは昔から、人の声は神に近い楽器として特別な地位が与えられていました。だからこそ、教会で楽器を奏でることは世俗的であるとして禁止されていた中世にも、歌を歌うことだけは神を賛美する行為として許されていたのです。
次に、社会性です。オペラはその誕生の頃から、時代時代の社会的問題を音楽にくるんで切り取ってきました。例えばモーツアルト作曲の「フィガロの結婚」は使用人が領主を懲らしめるという、当時のオペラの聴衆である貴族階級から見るととんでもない話。この原作となるボーマルシェ作の戯曲(同じく、フィガロの結婚)は、フランス革命の一因となったともいわれる過激な貴族批判で革命前夜のヨーロッパで上映禁止されていたのですが、モーツァルトはわざわざそれをオペラとし、上演できるようにしたのです。
有名なヴェルディ作曲の「椿姫」は、娼婦が主役であるため大騒ぎに。また、ビゼー作曲の「カルメン」も柄の良くない登場人物が多く、舞台上で人殺しまで行われるため、当初は野蛮な作品とされていました。
このようにオペラは、各時代に政治的であったり煽情的であったり、センセーショナルな題材を“芸術の衣”に包んで、その一歩先にある人間の本質を描いて見せてきた社会的な芸術形態なのです。