アイエンガー氏の新著『THINK BIGGER 「最高の発想」を生む方法:コロンビア大学ビジネススクール特別講義』(櫻井祐子訳、NewsPicksパブリッシング刊)が話題だ。本稿では以下、同書より一部を転載して紹介する。
ビル・ゲイツの望みは何か
あなたはたぶん、史上最も成功したイノベーターの1人、ビル・ゲイツの物語を聞いたことがあるだろう。だが第3章の「知識の錯覚効果」で説明したように、あなたはその物語を本当に知っていると言えるだろうか?
あなたの聞いた物語は、よくあるおとぎ話風のストーリーかもしれない。起業家がすばらしいビジョンを思いつき、それを実現するために邁進し、大成功を収めた、と。
これはThink Biggerの手順とは正反対に思えるだろう? その通り、実際に正反対だ。なぜならこのバージョンのビル・ゲイツ物語はおとぎ話なのだから。実はゲイツもThink Biggerによく似たプロセスを通っている。
これから見ていくビル・ゲイツの事例では、細部ではなく、「望み」に注目しよう。要所要所で、「ビル・ゲイツは何を望んでいるのか?」と考えてほしい。ビル・ゲイツは優れた分析的能力で知られる人だから、こんな問いはそぐわないと思うかもしれない。ソフトウェアは緻密な論理を積み重ねて開発するものだ。感情の絡む、「望み」などとは何の関係もないのでは? 優れた分析的判断を下すためには、感情を排して論理的に考える必要があるのでは?
それは大間違いだ。
あなたがどんな状況にいる誰であれ、あなたの望みは、あなたが行うすべての決定に影響をおよぼす。そして、イノベーションを次々と大成功させている、ビル・ゲイツなどの超大物イノベーターも例外ではない。
マイクロソフト創業物語
実際の物語は、ゲイツが育ったシアトルで始まる。ゲイツは高校でコンピュータクラブに入部し、そこで2歳上のポール・アレンと出会った。彼らはこのクラブで、ダートマス大学の2人の教授がコンピュータ教育用に開発した、BASICという簡単な言語でプログラミングを覚えた。さいわい高校には、DEC製の最新のミニコンピュータ、PDPがあり、クラブの部員はこれを使ってBASICでプログラミングしていた。
高校卒業後、アレンは大学を2年で中退し、ボストンのテクノロジー企業ハネウェルに就職してミニコンピュータ用のプログラムを書いていた。ゲイツは同じくボストンのハーバード大学に進学し、アレンと連絡を取り続けていた。ゲイツが大学2年生だった1974年末、インテルが革新的なマイクロプロセッサ、8080を発売し、コンピュータ界全体が飛躍的前進を遂げる。ゲイツとアレンはさっそくマニュアルを手に入れ、8080用のBASICを書く方法を考えた。だがチップそのものは、コンピュータ会社にしか販売されていなかったので入手できなかった。そこでアレンはハーバード大学のコンピュータ上で8080を模倣するプログラムを書き、2人はこれを使ってBASICを開発していた。
翌年1月、ゲイツを訪ねるためにハーバード・スクエアを歩いていたアレンは、街角の売店で売られていた、電子工学雑誌ポピュラー・エレクトロニクスの最新号に目をとめる。表紙には8080を搭載した世界初の安価なパーソナルコンピュータ、アルテアが載っていた。
アレンはすぐに雑誌を買い求め、はやる気持ちでゲイツのもとへ急いだ。その記事によれば、アルテアは8080チップを使っていたが、専用のソフトウェアはまだなかった。アルテアを開発、販売する電子機器メーカーのMITSは、アルテアを普及させるために専用の簡単なコンピュータ言語を提供したいと考え、プログラマーに開発を呼びかけていた。かくして熾烈な競争が始まった。のちにMITSは、開発に取り組んでいるという売り込みを人から受けたと言っている。そしてその中にもちろんアレンとゲイツもいた。
誰がこの競争に勝ったのかは、ご存じの通りだ。
こうして誕生したのが、アレンとゲイツがアルテア用のソフトウェアを開発、販売するために設立した会社、マイクロ-ソフトである(のちにハイフンを省略してマイクロソフトに改称)。
MITSとの契約を勝ち取ると、アレンは仕事を辞め、ゲイツはよく知られているようにハーバードに休学願いを出し、2人はMITS本社があるニューメキシコ州アルバカーキに引っ越した。
ゲイツに「先見の明」はあったのか
当時ビル・ゲイツが何を考えていたのかを見てみよう。彼は著書『ビル・ゲイツ未来を語る』(アスキー)の中でこう述べている。今ではマイクロソフトの成功要因が、PC上で多様なアプリケーションを動かすことを可能にし、PCをメインフレームコンピュータ(大型コンピュータシステム)の端末としてではなく、それ単体で機能できるようにしたことにあるとわかっている。だがそれはゲイツの構想、少なくとも彼がアルテア用のプログラミング言語の開発に取り組んでいたときに持っていた構想ではなかった。彼はメインフレームを操作する端末用の言語を書いたつもりだった。これが当時の一般的な考えだった。業界全体がPCをそのように見ていたし、この技術に飛びついた数千人の「ホビイスト」と呼ばれるコンピュータ愛好家も、同じ考えだった。
ゲイツはアルテアが売れることを望んだ。そうすれば、アルテア用の彼のプログラムも売れるからだ。
だがホビイストたちの考えは違った。彼らはアルテアの使いやすいプログラムを気に入ったが、1つのパソコンや機種でしか使えないことに不満を持っていた。そこで、マイクロソフトのアルテアBASICの海賊コピーを作成してインストールし、ユーザー同士でソフトウェアを転送できるようにした。そのせいでアルテアの魅力が薄れ、MITSとゲイツの売上は激減してしまった。
ゲイツは逆上し、ホームブリュー・コンピュータクラブ宛てに、のちに広く知られるよう になる公開状をしたためた。このクラブはカリフォルニア州メンローパークのホビイストたちの集まりで、影響力の大きい会報を発行していた。
「諸君のほとんどがソフトウェアを盗んでいる」とゲイツは書き、彼が名前を知ったホビイストたちが「最後には敗北するだろう」と強く脅した。そうした海賊行為がコンピュータ業界全体に損害を与えている、とゲイツは糾弾した。ソフトウェアを改良し、ひいては業界全体を改善するために必要な資金を、(ゲイツ自身を含む)専門家から奪っているのだと。
だがホビイストたちはゲイツを無視し、海賊コピーを続けたため、ゲイツはしまいにはさじを投げて、BASICプログラムに関わるすべての権利をMITSに6500ドルで売却したいと申し出た。MITSはこれを拒否した。アルテアの売上が落ちていて、その余裕がなかったからとも言われる。
アルテア発売から1年経った1976年3月、MITSはアルバカーキで第1回世界アルテア・コンピュータ大会を開催する。満を持して登壇したゲイツは、ユーザーがアルテア以外のPCも持ってきていることにすぐに目をとめた。そして彼らの全員が、ゲイツのBASICを勝手にインストールして、ユーザー同士でプログラムやファイルを交換していた。
ゲイツは当初この事態に腹を立てていた。だからあんな公開状を書いた。ところがその後、 彼はとんでもないことに気づいた。自分はこの市場を独占している。すべてのパソコンが自分のプログラムを使用している。これはマイクロソフトにとって悪い話ではない。それどころか、千載一遇のチャンスだ。
ゲイツがよく知られているように大学を中退したのは、このときのことだ。続いて彼は主要なコンピュータ関連のニューズレターに再び公開状を送った。その中で、最初の公開状について謝罪し、自分のソフトを採用してくれたユーザーに感謝を述べ、今後も新しいソフトの開発を続けることを約束した。次にゲイツは、すべての主要コンピュータメーカーとの間で、BASICを提供する契約を結んだ。そしてその後、ビジカルクやワードパーフェクト(やそれ以降の無数のソフトウェア)が出現すると、ゲイツはそれらを自社のオペレーティングシステムに次々と統合して、異機種間の互換性を提供したのである。