「不平等」を隠さない米国、実態なき「平等」にこだわる日本
特に子供達が育っていく中で、そこに貧富の差や不平等さがあることを(日本と比較して)ちゃんと教えている姿を見受けることがあり、それには感動さえ覚える。そのようなシーンでよく用いられる言葉が「different」である。「あの子のお家とうちは違うんだよ〜」と親が子供に言い聞かせるのである。日本ではその不平等さをひた隠す。年齢が低ければ低いほど、子供達には我々は平等であるという概念を、まるで教育プランの一貫であるかの如く押し付ける。結果として平等にするのは限りなく無理に近いことなのに、親達は「そんなの不公平だ!」と学校の先生達に噛み付くのである。そしてその親達は、子供を良い塾に通わせることに必死である。それが将来的な不平等を作り出すことを目的としていることを、認識しないまま。
2007年の夏、筆者がスタンフォード大学のアメリカンフットボール部にボランティアスタッフとして潜り込んで数週間、大量のコピーをしてバインダーにファイルしていくというこの世で最もつまらない作業をしている時に、当時の同僚Aが給料の話をしてきた。彼は(他人のことをまったく気にしない)アメリカ人には珍しくその類の話が大好きだった。
A 「TK(筆者のニックネーム)、おまえ幾ら貰ってんだ?」
TK 「ゼロだよ。ボランティアだからね」
A 「そうか。コーチBがいくら貰ってるか知ってるか?」
TK 「知らない」
A 「250K(現在のレートだと、日本円で約4000万)だぜ……Life is unfair.」
Aが言いたいのは、Bは能力低いくせに俺達の数倍の給料をもらっているということなのだが、筆者はその事実よりも「Life is unfair」というフレーズに引き込まれてしまった。現実をそのまま述べた言葉なのだが、たった3つの単語の組み合わせで、(ボランティアとして働く)自分のことや、人生、社会を完璧に表現している。個人的には、その言葉の後に「だからどうする!?」という強い疑問文、人生の道標、動機づけのような言葉が隠れていると思っている。
例えば、日本の子供達が、もう少し早く「だから、どうするのか?」「だから、こういう職業に就きたい」等、自分の人生について1日でも早く考え始められるようになれたら、「20歳を過ぎてもどんな仕事をしたいか分からない」といった成熟度の低い若者たちが多い日本の社会も、少しだけ変わるのではないだろうか。
以下に慶應高校野球部がやってなさそうで、日本の高校球児(特に強豪校)がやっていそうな無駄なこと、この場合、勝利に直接的に関係ないことを羅列してみた。
・坊主頭
・無駄に長い練習
・無駄な上下関係
・寮生活
・野球部、アスリートクラスでの授業
・部員150人(9人でやる競技なのに…)
これらは精神的、肉体的負担が大きく拘束時間も長い。もし、そこから受けられるR. O. I. (Return On Investment)が低いものであるなら、それは非効率以外の何者でもない。図らずもこうなってしまっている理由は、大きく分けて4つあると考えている。
1. 本人が野球が好きである→ これは大事だし、誰にも邪魔させる必要はない
2. 他に成功への近道があることを知らない→「島国」特有のリサーチ能力の低さ
3. 指導者のマネジメント能力の低さ→ つい最近まで(もしくは今でも)、スポーツ指導や教育現場では、この種の評価の指標は存在しなかった。そこまで生徒の時間や労力を奪わないと結果が出せない,つまり能力が低いと言える
4. 親が指導者や学校に任せ過ぎている
最後になったが、我が国の「記憶力重視・一発勝負偏向型」の入試や教育制度がこのまま続くのであれば、前述のスタンフォードOBの方の言葉を借りると、上記のような「野球バカ」達は、10年〜20年後に、効率重視で勉強も恋愛も髪型も自由で、高校生活を謳歌した慶應高校野球部の卒業生の下で働くことになることは、忘れてほしくない。
目を背けたい事実であるが、実際はそうなのである。親御さんも本人も、今一度考えて頂きたい、本当にこのままで良いのかを。