当時の錦絵を見ると煉瓦街といいながら「煉瓦色」じゃない。これは煉瓦の上に化粧漆喰(スタッコ)が塗られていたからだそうな。
錦絵を見ると煉瓦街のデザインがよくわかる。2階建てで2階にはバルコニーがあり、列柱が並ぶというデザインだ。これがずらっと街道沿いに並んだのである。実にモダンだ。歩道と車道が並木で分けられ、車道は馬や人力車が走ってるのもわかる。
でも、すんなりにぎやかな洋風繁華街になったのかというと、そうじゃない。
今まで江戸幕府のもとで商売をしてきたところに、薩長を中心とした新政府がやってきて、火事になったのをいいことに土地を買い取って勝手に観たこともない洋風の建物で町を作り、さあそこに住んで商売をやってくれといわれても反発するのはわかる。今まで木造家屋に住んでいた人にいきなり「レンガ造りの家」に住めといわれても困る。
鉄道開通のおかげで東京の表玄関となった銀座はいち早く西洋風の街並みを作り、文明開化をさきどりした銀座……ってイメージかもしれないけど、そううまくはいかなかったのである。当時「煉瓦の家はヤモリやムカデの巣になり、そこに住んでいると青ぶくれになって死んでしまうという風説もたった」(「中央区のあゆみ」名著出版より)とか、完成したばかりでセメントや漆喰などが乾ききっていない頃は湿気がこもってかびが生えたりもして、空き家も多かったのだ。結局、セメントなどが乾いて環境が安定してくるまで待つ必要があったが、そこに住んでいた人々が戻ってきたわけではなかった。
代わりにやってきたのは、新しい時代がくるから新しいことをやりたいという人たちだったのである。洋風煉瓦街という新しい器に新しい人たちが新しい商売をしにきた。それが煉瓦街だったのだ。
確かに銀座の老舗をみると、江戸時代創業は少ない。多くが明治時代、つまり煉瓦街の時代にやってきた人たちなのだ。
今や煉瓦街時代の建物は1つも残ってないが(関東大震災時に火災で失われた)、京橋跡のたもとに大正時代の京橋の親柱が1つあり、その奥にガス灯と「煉瓦銀座の碑」がある。「東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し、政府は国費をもって煉瓦造り二階建てアーケード式洋風建築を完成す」とある。