教育

2023.01.14 18:00

僕が「行動する作家」開高健の味覚の描写から学んだこと

蟹を食べる見事な描写に感嘆

さて、「行動する作家」開高健が赴いたのは、戦場だけではない。アマゾンや北海道やアラスカに飛んで、見たり釣ったり食べたりした。そのルポタージュは主に雑誌の連載物として目にすることが多かった。

読み返すと、味に関する描写には絶品の趣がある。「美味しい」のひとことで片つけず、言葉を尽くして表現する姿勢を貫いていた、と前述のイベントでのシンポジウム参加者の証言を裏づけるような描写のオンパレードだ。イベントの当日に配られた小冊子『はじめての開高健』にはなかなか味わい深い言葉が載せられているので、ここから孫引きしてみたい。



「スープ皿に入れられるのは、ごく1センチぐらいの深さに過ぎない。しかしそれはカリブ海の夕日のように輝いている。」(『風に訊け! ザ・ラスト』集英社文庫)。

すごいですね。「行動する作家」の面目躍如といった感がある。カリブ海の夕陽を見たことのない僕がこんなセンテンスを書いたら、それは詐欺だ。同パンフレットには蟹を一心不乱に食べるシーンも載っている。こちらも紹介しよう。

「気品高い脂味。精妙をきわめた小味の陰影。ジュウッとこぼれる汁の絶妙。一同たちまち目がギラギラして、ひとこともしゃべらず、ひたすらうなだれて白熱して、しゃぶる、舐める、せせる、ほじくる、吐息をつく。」(『オーパ!』集英社文庫)。

実は、このコラムを僕は初出の雑誌で目にしている。当時若造だった僕は店で蟹を食べたことがなかったので、「うまそうだなあ。いちどは食べてみたい」と思ったものだ。そして、齢を重ね、物書きの端くれとなったいまは見事な描写に感嘆している。

僕の記憶が正しければ、この描写の前には、料亭の女将さんに、蟹だけを持ってきて、蟹だけね、と念を押すシーンがあった。そのどってことのない場面は、記憶の断片として僕の頭の片隅にずっと居残り続けた。

そして、小説家になった僕は、北海道の割烹店で男ふたりが蟹を食べるシーンを書いた(『コールドウォー DASPA 吉良大介』小学館文庫)。「とにかく蟹だけをじゃんじゃん持ってきてください」と登場人物に言わせたのは、上の記憶が自分の作品に反映されたものだと言える。

ただ、蟹の味の描写はほとんどしていない。上に書いたように、冒頭のシーンなのでピッチを上げる必要があったことがひとつ。もうひとつは、御大の技芸には遠く及ばないと観念したからである。

文=榎本憲男

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