私とビジネスパートナーは、チームの主要なリーダー1人とともに職場の修養会に出かけ、思考や戦略、プロセスを前進させるはずだった。しかし私たちは、無意識にノートパソコンを開いて電子メールに返信していた。
メールは、私がどうしても勝てない敵のような存在だ。メールは多くの時間を無駄にし、いつまでも集中を妨げてしまう。私はメールをひどく嫌うようになり、これが良いことではないのは分かっている。また私は、経営トップ層の戦略を練る1日をメールに費やすことで始めるのはひどいアイデアだということも理解している。しかし現実はそうなってしまっていた。
素早く数通のメールに返信した私のビジネスパートナーは、私が返信したばかりのメールにも返信した。このことで、チームが混乱する可能性があった。
私は突然怒りを感じ、こうしたメールのやりとりに怒りを感じていることを震える声で告げたが、これが怒りの原因ではなかった。少なくとも、これが原因の全てではなかったのだ。私は、数通のメールが行き違いになったこと以上の何かに怒っていることを知っていた。私は自分が何にそんなに怒っているのかを見極めるため、数分間静かに考える必要があった。
同僚同士はストレスがたまると互いを非難し、相手が自分にしていることやしてくれないことに焦点を当てるようになる。私たちはそうして水面下にあること、相手と交わすべき会話の中核に目を向けず、相手を変えたり直したりしようとする。
ハリエット・レーナーは著書『怒りのダンス』で次のように述べている。
「怒りは何かを示すもので、耳を傾ける価値があるものだ。私たちの怒りは、傷ついていることや権利が侵害されていること、ニーズや望みが十分満たされていないこと、あるいは何かが間違っていることを示すメッセージかもしれない」
ここで重要な点は、怒っているときは立ち止まり「自分は本当は何に怒っているのか」と自問することだ。
怒りが教えてくれること
そうして私の怒りが爆発したときに同僚が加わった。居心地の悪い静けさに、彼女は「どうしたの?」と尋ねた。私は何が起きたかを簡潔に説明した。私たちは混乱していて、私は何が原因なのかについてまだはっきりと分かっていなかった。
私たちはその後1時間かけ、問題を整理し、議論や質問をして互いに話を聞いた。互いを非難したり、火に油を注ぐような言葉を使ったりはしなかった。