東証の「場立ち」が消えて22年、兜町からなくなったものとは?

シンボルである回転式の大型LEDディスプレイ


今や多くの証券会社が兜町を離れ、老舗のウナギ屋や喫茶店などが相次いで長い歴史に幕を閉じた。目立つのは資産運用会社やフィンテック関連のスタートアップ企業などの入居するビル。1階にはしゃれたレストランや菓子店などが居を構える。敷居が低くなった半面、「人間臭さがなくなってしまうのではないか」などと一抹の寂しさも感じる。

この街には古くから「義理や人情を重んじる」という行動規範があった。その規範を体現し、街が持つ独特の雰囲気を醸成していたのが「場立ち」の存在だ。おそらくこの街にかつて、なんらかのかかわりを持った多くの人が認めるところだろう。

実は筆者もその一人だ。バブル景気が盛り上がり始めた1980年代半ば、東京証券取引所内にある記者クラブ常駐の記者として社会人の第一歩を踏み出した。浅学菲才の駆け出しに対し、取材を通じて相場の見方などを徹底的に叩き込んでくれた経緯がある。

「場立ち」とは、東京証券取引所で人手を介した株式売買が行われていた当時、顧客からの注文を取り次ごうと立会場内を奔走していた証券会社の市場部員のことだ。昼休み時間になると、紺のブレザーを身にまとった「場立ち」が立会場から街にドッとあふれ出し、飲食店などへ繰り出した。

ところが、1999年に売買がすべてコンピュータ化されたことで彼らは兜町から姿を消す。喧噪に包まれた「日本のウォール街」も思い出の1ページになった感がある。

null
24日に開催された大型ディスプレイの点灯式

「場立ち」といえば、強く印象に残るのが売買注文を伝達するために用いていた手サインだ。「場立ち」がひしめき合う場で、「どの銘柄をいくらで買う、あるいは売る」かを手の動きで正確に伝えなければならない。

「コップの水を飲むしぐさをしたら野村(ノムラ)證券」「手の甲を別の手で叩くしぐさは旧新日本製鐵(テツ)」…。各銘柄にはニックネームも付けられていた。飛島建設は「トンビ」。平和不動産は「ボロ」(「ボロ」の由来は定かでない)。こうした立会場時代の「ルール」を知る証券マンはもはや少数派だろう。
次ページ > 渋沢栄一の合本主義

文=松崎泰弘

タグ:

ForbesBrandVoice

人気記事