チタニウムのモータとアルミニウムのカバーをもつ計器部から成る「おおすみ」
日本初の人工衛星を目指して
L-4S-5号機による「おおすみ」打ち上げの瞬間。1966年から4度の失敗を経て、70年に行われた5度目の挑戦で打ち上げに成功した。
日本の宇宙開発の夜明けは1955年。「日本のロケットの父」である糸川英夫教授の率いる東京大学生産技術研究所の研究班がペンシルロケットの実験を行ってから、宇宙への挑戦は加速していくことになる。
1958年にはペンシルロケットを進化させたカッパロケットで大気圏の観測に挑み、高度50kmの上層大気の観測に成功。その後もより高くまで到達できる大型のロケットの開発が進められた一方で、1962年には「5年後に30kgの人工衛星を打ち上げる」という目標を掲げ、具体的に人工衛星の打ち上げ計画が検討され始めた。
しかし、それまで観測ロケットをより高く打ち上げることを目的にしていた日本にとって、人工衛星を搭載し、軌道に投入するロケットを開発するのはとてつもなく高い壁だった。
第二次世界大戦の敗戦国だった日本は、軍事利用に転用できるロケットの制御技術をもつことを許されていなかったほか、ロシアやアメリカといった大国に比べて開発に投じられる資金もごくわずか。決して恵まれた条件とはいえなかったが、科学者たちの強い志は開発の歩みを止めさせなかった。
「おおすみ」の計器部とアンテナ
1962年には、衛星を搭載する能力を向上させたラムダロケットの試験を行うため、打ち上げ射場を鹿児島県大隅半島に移転。そして1964年には、東京大学生産技術研究所の一部と東京大学航空研究所が合併し、東京大学宇宙航空研究所が設立される。高度経済成長の真っ只中、ロケットの性能も年々向上していった。
「盛んにロケット実験が行われ、そのなかに新しい発見があって、失敗もあった。そして、観測が成功したときはともにみんなで喜ぶという、非常に活気あふれる時代だったんです」と、井上さんは当時の様子を振り返る。