しかし、考えてみてください。「比較」することに、なにか意味があるでしょうか。
「悟(さと)れば好悪無(こうおな)し」という禅語があります。人間関係に引き寄せてその意味をいえば、他の人がどうであろうと、あるがままを認めたら、好きとか嫌いとか(自分に比べて相手が上とか下とか……)といった感情に流されることはない、ということでしょう。
日本における曹洞宗の開祖・道元禅師も、「他(た)は是(こ)れ吾(われ)にあらず」といっています。他人のしたことは、自分のしたことにはならない、と教えています。他人が努力したことで、自分が向上することはありません。向上するためには自分が努力するしかないのです。
禅ではどんなものも、どんな人も、他とは比べようがない「絶対」の存在とします。あなたもそうですし、他人もそうです。
「比べようがない」のです。比べようがないものを比べようとするから、余計なことや無駄なものがまとわりついてしまい、不安や悩み、心配事が増えるのです。
比較することをやめたら、そう、妄想の九割は消えてなくなります。心はずっと軽くなります。生きるのがずっとラクになります。
「莫妄想」──この言葉を折に触れて思い出してください。この教えは、「比較なんかしないで、絶対の自分を信じて生きよ!」という、あなたへのエールです。
コツコツ続ける──人の才能をうらやむ前にやるべきこと
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「こちらは企画ひとつ出すのにも、四苦八苦しているのに、彼はいとも簡単に次々と斬新な企画を出してくる」
「いつも営業ノルマをぎりぎりクリアするのがやっとの自分と違って、なんであいつはあんなにラクラクとトップの成績を続けられるのだろう」
思い当たるな、という人は少なくないのではないでしょうか。人の才能がまぶしく見える、ということが誰にでもあるのだと思います。
しかし、まぶしい他人の才能をうらやんでも、なにも始まりません。才能にたじろいでいるのではなく、やるべきことはちゃんと他にあります。
自分のできる努力をコツコツ続ける習慣を身につける。その「習慣」によって、「才能」を超えることもできる。私はそう思っています。
禅の修行の本質も「繰り返し続ける」ことにあります。「制中(せいちゅう)」と呼ばれる修業期間のあいだ、修行僧はくる日もくる日も、厳しい修行に身を置きます。
続けること100日間。毎日、同じことをしているうちに、坐禅も、読経も、お勤めも……修行生活のすべてが習慣となり、身についていく。「体が覚えてしまう」といったらわかりやすいかもしれません。
いくら経典を理解する「能力」にすぐれていても、そうした「努力」を怠っていたら、修行にはならない、悟りを求めて行く道を歩くことにはならないのです。