全数把握ができていない疾患など山のようにある。日本ではインフルエンザの「全数」把握はしておらず、定点観測である。それで疫学上、感染対策上、十分な情報が得られているからそれでよいからだ。日本で毎年風邪が何例発生しているか、正確に把握したデータはない。レセプトデータを見ればわかるじゃないか、というのも間違いで、多くの風邪患者は(ぼくのように)受診せずに自然に治るまで待っている。医療に限らず、経済学でも政治学でもデータはサンプリングから母数を推定するのがほとんどで、「全数」は非効率的な状態把握法なのだ。
日本においてイタリアやスペイン、ニューヨーク市のような惨状は起きていない。重症患者で医療崩壊、手術室をICUとして使ったり、死体の山の置き場に困ってスケートリンクに死体を積み上げるという現象は起きていない。「感染者数」が把握できていなくても、日本の現状が(東京を含め)、諸外国よりもずっとよくコントロールされているのは事実である。
問題は、間違いに気づき、修正を加えること
さて、それでも「じゃ、実際のところどうなのよ」という関心もあろう。推計はある。例えば、西浦博先生らのグループが行った推計では、日本の軽症患者は報告されている数の倍くらいではないか、と見積もっている。捕捉率は0.44, 95%信頼区間0.37-0.50というものだ。
この推計は中国のデータを基盤にして行われた研究だが、そもそも中国のCOVID-19のデモグラフィックと日本のそれが同じであるという必然性は必ずしもない。また、もととなる研究は無症状者や入院不要の軽症者が含まれていないので、それを基盤に推計した感染者数は必然的に過小評価となる。もっと猜疑的になれば、「そもそも突然変異で日本と中国のウイルスは別物なんだ」という説だって存在していけないことはない(ぼくはそうは思わないが)。
このことは、当該論文自体の価値そのものを貶めるものではない。モデルでは、常に既存のパラメーターを援用せねばならず、そのパラメーターが外的に妥当であるかはしばしば証明できない。前提となるパラメーターが妥当でなければ、予測も当たらない。モデルはモデルである限り、シンプルにされた世界を前提とする。簡略化のないモデル、というのは形容矛盾である。数理モデルのこうした「前提」にイチャモンを付けるのは、例えばAという疾患を対象にランダム化比較試験をしたときに、「Bという疾患については分からないじゃないか」と文句を言うようなもので、業界の仁義に反する意味のない揚げ足取りである。
しかし、論文の読み手は別である。ある種の仮説を前提にした数理モデルは、学問的に内的に妥当性を担保していればよいが、それを現実世界でどうアプライするかは現実世界の住人たる読み手の責任だ。Aという疾患を対象にしたRCTの知見をBという疾患に使ってはならないように、数理モデルの制限や限界を理解し、現実世界にアプライするときに十分注意するのは当然だ。例えば、当該論文を読んで、3月26日時点の「東京の感染者は累計だいたい500人だ」と断定するのは間違っている。
人は間違う。モデルも間違う。間違うことはさしたる問題ではない。問題は、間違いに気づき、修正を加えることだ。すでにロンドンのインペリアル・カレッジのグループは、感染のピークを緩やかにすればいい、という当初の見積もりが「間違っていた」と認め、かなりアグレッシブにこのウイルス感染と戦わないと早晩ICUが破綻すると予測を改めている。