復興は誰のため?「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」石巻で新聞を配る編集長が拾う声

3年ぶりに再会した岩元暁子さん。スヤスヤと眠る息子を抱えて現われた =都内で撮影

2020年3月11日、東日本大震災から9年経ち、ついに10年目を迎える。今夏に開催予定の東京五輪は「復興五輪」と位置づけられ、日本にとって被災地の「復興」を海外にアピールする機会となるだろう。

また、日本政府主催の東日本大震災の追悼式は、今年は新型コロナウイルス感染拡大に伴い中止、来年は「10年の節目」となるが、日本政府主催の追悼式典はそれを最後に打ち切られることになっている。さらに、国による「復興・創生期間」は2021年3月末までだが、その司令塔である復興庁は、21年度から10年間延長が決定されたものの、国の補助金や交付金などの復興事業費は大幅に縮小される見込みだ。

このような流れのなかにあって、被災地は本当に「復興」したのだろうか。「節目」とは誰が決めるのだろうか。そんなにも「復興」は画一的なものだろうか。疑問が次々と湧いてくる。

筆者は3年前にも、宮城県石巻市から気仙沼市、岩手県陸前高田市、釜石市、大槌町まで三陸海岸を北上するように被災地の取材をした。復興の状況はさまざまで、津波で流された家屋や建物など何もなく、まっさらな土の台地が目立つ沿岸部では、かつて街があったことを想像することさえ難しかった。津波を防ぐため、かさ上げされた土地や防波堤、防潮堤が海の眺望を阻み、変わり果てた街のあり様に落ち込むお年寄りや、それでも前を向く人などを目の当たりにした。

あの頃はプレハブの仮設住宅もあり、気軽に中に招いてくれる人もいて、東北の温かさや心優しさ、その裏にある強さを感じたものだった。平屋のプレハブが整然と並び、外で元気に遊ぶ子供たちがいた。ある老夫婦はプレハブの壁は薄く、隣近所で会話する声、親が子供を叱る声、赤ん坊の泣き声など、すべて聞こえてくると言っていた。そして妻はこう言って笑った。「仮設にいると些細なことで喧嘩する。逃げ場がないのよ」

そこで私は、どうにもならない現状を受け入れながら、たくましく生きる人たちの姿を垣間見た気がした。

ついに石巻で仮設はゼロになった。喜びだけではなかった


そんな仮設住宅で暮らす人は徐々に減っていき、国による復興住宅(正式名称:災害公営住宅)に転居して、新たな生活を始める人も多い。宮城県では「復興五輪」に向けて、仮設住宅をゼロにしたい考えだ。宮城県の震災援護室によると、県内では最大で2万2095戸の仮設住宅が建てられ、1月末現在では8戸で18人が暮らしている。

私は、3年前の被災地取材の出発点だった石巻市で出会った女性と都内で再会した。彼女は、以前の取材時にはまだ生まれていなかった赤ちゃんを抱いて、待ち合わせ場所に現われた。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を合言葉に、現在も石巻市内で毎月1回5000部発行している「石巻きずな復興新聞」編集長の岩元暁子さんだ。


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文=督あかり

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