Forbesの2018年DJ長者番付で4位(2800万ドル)にランクインする彼は、毎日3〜4時間寝る以外は創作及びライブ活動に伴う移動に充てるショートスリーパー。ラスベガスの自宅には年間50日程度しかいないという逸話もある。(その狂気すら孕んだワーカホリックな生活は、ネットフリックスのオリジナルドキュメンタリー『I’LL SLEEP WHEN I’M DEAD』で観ることができる)
レストラン「BENIHANA」の創業者であり、偉大な男である父親ロッキー青木の背中を追いかけるように、そのありあまるエネルギーを音楽にぶつけている彼のクリエイションと枯れることのないインスピレーションの熱源はどこにあるのか?
先日来日を果たしたタイミングで、世界のダンスミュージックシーンに影響を与え続ける彼に、これまであまり語られなかったティーンエイジの頃まで遡って話を訊いた。
15歳の頃、目の前にいる客を楽しませることを学んだ
スティーヴ・アオキは、アメリカフロリダ州マイアミで生を受ける。経営者として仕事に奔走する父親の影響で、様々なものづくりにトライするようになった。
「15歳になる前、ハードコアにのめり込んだ。それは人生を変える音楽体験だったんだ。彼らはマイクでシャウトして、そうかと思えばマイクをギターの弦に充ててスライドさせて音を出すパンクロックスタイルの音楽で、観客全員を巻き込んだパフォーマンスをする。はじめて聴いたときにものすごく興奮したよ。
音楽のマーケット的に言ったらハードコアシーンの規模は小さくて、だからこそ誰も聴いたことのない音楽で、その狭さに、ある意味“自分たちのためだけの音楽”という感覚を覚えて、一層のめり込んでいくことになったのかもしれない。いずれにしても、それまでの短い半生でもやもやとしていた部分がそこで変わった感覚がある」
DIYシーンの源泉に触れ、自分もその一員だと意識したとき、彼の中で鬱屈としていた10代の感情が爆発した。
「その頃、一緒に遊んでいた仲間と『バンドをしようぜ』という話で盛り上がった。誰も楽器を弾けなかったけど、……いや、家に楽器スタジオがあるドラマーは経験があったかな? そいつの家に行って、とりあえずギター、ベースと担当を割り振った。俺らは毎日いろんな楽器を持って家に行って、楽器を変えて、歌ったりした。そうする中で、16歳の頃には全役割を担当できるようになっていったんだ。
はじめてお客さんの前で披露したとき、お客さんは6人くらいだった。……そうだな、今日ここにいるスタッフの方が多いよ(笑)」
音楽に捧げた10年前の顔
ダンスミュージックシーンの最中にいて、世界中を飛び回り熱狂させる男に“DIYマインド”を植え付けたのはパンクだった。熱狂の最中で学んだことを彼はこのように語る。
「当時あのシーンにいて学んだことは、“人間本気で情熱を注いでやれば、なんでもできる”ということ。音を表現する場所があったらどこでもなんでもやれるということ。あとは、目の前にいる5〜10人の観客を満足させることができない人に、1万人を楽しませることはできないんだということ。それこそが培ってきた感覚だし、学んだスピリットだった」