大学へ入学して1年、19歳になる頃には自らのレーベル「Dim Mak」を立ち上げる。当時はエレクトロミュージックとバンドシーンが交差していく時代だった。
「大学に入った頃、音楽に対するモチベーションもエスカレートしていた。自分がスタジオでレコーディングする能力もあったし、自分のレコーディングスタジオで録音するアーティストがいっぱい出てくるようになった。毎度『レコーディングしないか』と持ちかけて、そこでバイナル(レコード)を作った。
最初の10年は音楽の仕事で自分の手元に残る給料はなかったよ。でも、それを苦痛だとも、変だとも思わなかった。自分がそれだけ音楽に救われたし、そのくらい捧げてしかるべきだと感じていたからね」
あまり知られていない、もしくは忘れ去られているかもしれないが、今のスティーヴ・アオキの成功の前にはレーベルオーナーとしての顔がある。2002年にはTHE KILLS、2003年にBloc PartyやMYSTERY JETSとする契約など、The Strokes登場以降のロックンロール・リバイバル全盛と言われたアメリカの音楽シーンの移り変わりを彼は理解していた。
そんなスティーヴ・アオキが過去のインタビューで“転機”と振り返るのは2007年頃の話だ。当時トレンドとなっていた“ハウスミュージック”と“ハードコアバンド”を混ぜた音楽が若い層に受け始めるようになり、自らのレーベル「Dim Mak」での活躍は音楽業界にとって無視できないものとなった。
それからの彼のダンスミュージックのDJとしての活躍は言うまでもない。エレクトロミュージックを取り入れ、若者から絶大な支持を受ける。やっかみや批判の声は流れてくるが、彼は「それに気を取られている時間はない」と語る。毎年DJ長者番付のトップ10にランクインするようになっても、純粋な表現に対する熱量は衰えるところを知らない。
アートシーンに抱く新たな野望
そんな彼は今、新しいチャレンジを模索しているようだ。
「15年以上、DJとして世界中を旅するように音楽フェスティバルに出演して、様々なカルチャーと交差するなかで、自分とは異ジャンルのカルチャーとコラボレーションしたいと考えるようになった。今回東京に来たのも、自分がアニメや日本文化に影響を受けていることの証明だよ。本当にインスピレーションが湧くし、他のどの都市よりもマインドセットが整う街だと思っている。
次のプロジェクトは音楽以外でのものづくりの熱源を持った人達をセレクトして、10人規模のコレクティブを作ってアートシーンにアプローチしていきたい。一緒にコラボレートした作品を来年から作りたいと思っているんだ。そういう意味で歌がうまい人は要らない。必要なのはインスピレーションを与えてくれる才能そのものだ」
最後に、10代の頃に音楽に打ちのめされた自分自身と新しいプロジェクトを仕掛ける自分自身に連なりを感じるかという質問に、彼は以下のように答えてくれた。
「意識したことはなかったけれど、ある意味そうなのかもしれない。15歳の頃、音楽と一緒にFANZINEを作ったり、レーベルオーナーとしていくつかのレコードをリリースしたりしていた頃の自分がやってきたことはしっかりと道がつながっているからね」
スティーヴ・アオキの飽くなき情熱はまた新しい地平に向かっている。