世界恐慌の年、1929年に難民救済のための避難船として活躍をしていた船は、なぜセーヌ川に沈んでしまったのか。
そして、この船を再び浮上させる「アジール・フロッタン復活プロジェクト」に、なぜ日本人建築家・遠藤秀平が関わっているのか。
遠藤氏に話を聞いた。始まりは、「1本の電話だった」という。(以下、遠藤氏談)
偶然の重なりで、私は今このプロジェクト関わっています。
キリスト教系の慈善団体「救世軍」の所有物であったアジール・フロッタンを買い取り、新たな文化施設へ蘇らせようと5人の有志のフランス人が集まったのは、2005年のこと。
彼らが集まった話し合いで最初に出たのが、「このプロジェクトには、絶対に日本人建築家が必要だ」という意見でした。
なぜそんな話になるのか。それは、この船が完成した背景が関係しています。
アジール・フロッタンの元となった石炭運搬船「リエージュ号」は、1917年に建造され、第一次世界対戦中はパリへ物資や石油を補給するために使用されていました。
しかし、その翌年に終戦を迎えたリエージュ号は、建造されてわずか1年で役割を終え、長年雨ざらしの状態に置かれていました。
そんな船に目をつけたのが、マドレーヌ・ジルハルトという、当時としては珍しい存在だった女性画家。同じく、女性画家のパートナー、ルイーズ=カトリーヌ・ブレスローから相続した遺産を資金に、戦後の混乱の最中にあったパリに溢れる難民のためにリエージュ号を避難船へ活用することを救世軍へ提案しました。
そこで当時、芸術家たちのサロンの主宰など、彼らの活動の支援をしていたパトロン、ポリニャック公爵夫人が、船の改修工事の設計者として推薦したのが、コルビュジエだったのです。
船を完成させた「ある日本人」
船の基本構造はコルビュジエにより構想されましたが、設計を担当したのは、彼のアトリエで働いていた、日本のモダニズム建築を語る上で欠かすことのきない建築家、前川國男です。
リエージュ号から「アジール・フロッタン」と名を改め、戦時中から混乱の時代を生き抜いた末にこの船は日本人建築家によって完成されました。そんな歴史もあり、2005年に再生プロジェクトが動き出した頃から、有志メンバーは日本人建築家の必要性を感じていたそうです。