ビジネス

2018.10.08 17:00

日本のベンチャーは世界で通用するのか 「世界大会」で見えたもの


学生だった河野が入り浸った場所

ストーリー?それなら、河野には十分すぎるほどある。彼の学生時代の話からはじめよう。慶應義塾大学の学生だった河野が入り浸っていた場所。それが、野村證券の三田支店だ。まだバブルの残り香漂う平均株価が2万円台の後半をつけていた当時、河野は株にハマり、大学に行くのは東京株式市場が引ける午後3時以降という生活を送っていた。毎月必死で稼いだアルバイト代20万円のすべては、株につぎ込まれていく。

ただ、誰しもの記憶に確かなように、1989年を頂点に右肩下がりの相場は投資家を苦しめた。河野も例外ではなかった。学生ながら、ついに怪しげな投資顧問会社に電話をし、言われるがままに30万円を用意した。しかし、おいしい話など存在しない。投資資金をほぼ失った。が、これに懲りず、河野は伊藤忠商事に就職、為替証券部でディーラーというプロの投資道を歩むことを選ぶ。

その後、伊藤忠が出資する日本オンライン証券(現カブドットコム証券)、そこからイーバンク銀行(現楽天銀行)の立ち上げに参画する。

河野のように「金融」「ネット」の中心にいた人物にとって、当時は激動の時代だったはずだ。ネットバブル、それに伴うIPOブーム。次々に渋谷・六本木のITベンチャーが上場したのもこの頃だ。それに続く、米同時多発テロや、エンロン破綻。日経平均は次々に大台の節目を割り込んでいった。そんな狂乱の時代の中で、河野は冷静だった。

「見かけ上よく見える会社は長続きしない。短期有効、長期無効の会社が多いに違いない」。だからこそ、「ホンモノの会社をつくりたい」。そんな思いが心に渦巻いた。

それを後押ししたのが、学生時代の友人の死だ。「人はいつ死ぬかわからない。人生を悔いなく生きたい」。これが、05年8月、ティーケーピーが生まれる原動力となった。そして、行き着いたのが、現在の貸会議室という業態だ。最初に手がけたのは、六本木の取り壊しが決まっているビルを安く借りて時間貸しをするというビジネスモデル。

ピンチをチャンスに

ただ、最初からうまくいったわけではない。予約が入らず、苦し紛れに自らネット上にHPを作って広告を打った。日本オンライン証券とイーバンク銀行時代に培ったマーケティング知識が役立った。すると、当時、貸会議室では広告を打つ者がいない上に、「貸会議室」とキーワード検索する人が一日に1万人いることがわかった。実際、毎日電話が鳴り止まず、ティーケーピーは貸会議室のほぼ独占企業となっていく。

「ピンチのときこそ、チャンスに変えられる」。これは、河野の相場人生時代を支えてきた逆張りの発想だ。河野が「本当に苦しかった」という2つのピンチがある。
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文=Forbes JAPAN編集部

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