「ありがとう」が聞きたくて横領に手を染めた女の夢見た自由

映画『紙の月』主演、宮沢りえ(Photo by Getty Images)



「紙の月」に出演した池松壮亮(左)と宮沢りえ(中央)、吉田大八監督

学資の借金がかさんで大学をやめると言う光太に、お金を貸すと申し出る梨花。そのために、平林老人から預っている二百万円を、預け入れがキャンセルになったことにして流用する。

とまどいながらも梨花の厚意を受け取り、「ありがとう」と言う光太に、心から嬉しそうに微笑む梨花。この人が本当に欲しいのは「ありがとう」なのだ。目の前にいる人の「ありがとう」によって、己の価値を実感してみたいのだ。

上海に転勤が決まった夫に同行するのを拒否した梨花の行動は、一人暮らしの自由を得たことでますます大胆になっていく。顧客の信用を利用して、平林をはじめ、一人暮らしの老婦人やお金持ち夫婦から金を引き出してはデートで散財し、ヤバくなると一方を一方の補填にあてるという泥沼の自転車操業。

犯罪の上塗りへと突き進んでいく梨花に、逡巡、葛藤はほとんど見られない。あたかも、崇高な使命をまっとうせんとする人のようなひたむきさだ。

だが、光太と高級ホテルに連泊する贅沢三昧と、自宅の荒れたリビングで預かり証書の偽造に勤しむ地味な姿のギャップは、滑稽であり同時に痛ましい。若い恋人が自分の厚意に甘えて堕落し始め、いずれ関係が終わることも、この時の彼女は予感していたのかもしれない。

私たちは皆、常識と欲望の間にいる

銀行で梨花と絡んでくる女性の行員は、若手の相川恵子(大島優子)とベテランの隅より子(小林聡美)。ちゃっかりした現代っ子タイプの恵子は、「やりたいことはやりたいじゃないですか」などと、事情を知らずに梨花の欲望のツボを押す。彼女の言葉は「悪魔の囁き」だ。

それに対し、常に鉄面皮で仕事に厳しい姿勢を崩さないより子から梨花が感じ取るのは、自分の悪事を裁く「正義の眼差し」だろう。この二人は、梨花の中に棲まう欲望と常識の隠喩でもある。そして、恵子が寿退社でドラマから消える前後から、梨花を不審に思い始めるより子の存在感が増してくる。

こうした流れに断片的に挿入されるのが、梨花のミッション系女子校時代のエピソードだ。聖歌の合唱、恵まれないタイの子どもたちへの寄付、シスターの「受けるより与える方が幸いである」という説法。寄付先の少年から御礼の手紙を受け取った梨花は、「感謝されることの悦び」を知る。それを存分に味わいたいという思いは、少女の彼女に越えてはならない一線を踏み越えさせる。

光太に出会った梨花がしていることは、それと同じなのだ。彼女は一貫して、同じ関係性を欲している。

家庭生活でそれは実現しなかった。銀行の顧客訪問ではそれなりの手応えを感じた。でも彼女はそこで満足することはできなかった。「感謝されたい。与えたのは良いことだったと思いたい」という渇望があまりにも深かったから。

もはや個人が埋め合わせられる額をはるかに越えてしまった着服金。消費者金融へのせっぱつまった電話や、架空の商品のチラシ作りという悪あがきの果てに、ついに横領発覚となった場で、梨花とより子の間に交わされる「自由」をめぐる会話は、犯罪者と常識人のそれを越えて観る者の心に突き刺さってくる。

常識を振り切って非日常的自由へと逃走する梨花。彼女は最後まで自分の夢にしがみつこうとした。一方、こちら側の世界に踏みとどまり、変わらぬ日常を送るより子。私たちは皆、この二人の間にいる。

映画連載「シネマの女は最後に微笑む」
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文=大野左紀子

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