忘れもしない小学校6年生の夏休み。私は学校で広島・長崎の原爆記録映画を観た。女子生徒が家を出るシーンから映画は始まる。その後、場面は、きのこ雲、焼け野原、火傷を負ってさまよう人々と急展開していく。原爆が落下した後、多くの子どもたちが白血病になったことを知り、がんを専門とする小児科医になった。
子どもの白血病は昔に比べるとかなり治るようになった。がんの子どもたちが成長し、「就職しました」「結婚して子どもができました」といった話を聞くたびに、小児科医になってよかったと心底思う。しかし、私の目の前で息を引き取った子どもたちもいた。一度再発すると、完治は難しい。壁を乗り越える方法を見つけにハーバード大学公衆衛生大学院に進学した。
ハーバード大学には、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)を創始したバーナード・ラウン先生がいることを知る。1961年、ある講演が先生に衝撃を与えた。ノーベル平和賞受賞者のフィリップ・ノエル=ベーカーによる「核開発競争が人類滅亡の脅威に曝している」と題した講演だ。
ちょうどその頃、ラウン先生はAED(自動体外式除細動器)のプロトタイプをつくって突然死を減らすべく、日夜奮闘していたが、「自分のやっている仕事は、なんてちっぽけなんだろう」と感じたと述べている。
早速、ハーバード大学の若手医師らと小さな勉強会を組織。56メガトンの核爆弾がボストンに投下されたらどうなるかのシミュレーションをし、医師や看護師が何人いても、点滴がいくつあっても、「焼け石に水」であることを悟った。
66年、先生がニューデリーで開催された国際心臓学会に出席した際のこと。ホテルのエレベーターに乗ったとき、ソビエト人医師も続いて乗り込んできた。このときに出会ったのが、のちに盟友となるエーゲニー・チャゾフである。
偶然にもそこで初顔合わせとなった2人はその後も親交を深め続け、80年にIPPNWを結成した。冷戦の真っ只中であり、アメリカ国内では「共産主義者」と見られてしまい、白眼視されるなど、苦労も多かった。しかし、チャゾフ先生はソビエト書記長の主治医となり、転機を迎える。
チャゾフとラウンの両先生は、ソビエト国民が見守るなか、生放送番組に出演した。さらに、『ラストエイド』と題する本も出版し、これが7か国語に翻訳される。そして「核戦争が発生した際の状態を専門家の見地から分析し、その後のカタストロフィー(破滅的な災害)について多くの人々に伝えた。このことは、核兵器廃絶の世論を喚起し、冷戦を終結に導いた」として85年、ノーベル平和賞を受賞したのだ。
私にとって医師が冷戦終結のきっかけをつくった事実は衝撃であった。まさに「ペンは核よりも強し」であり、究極の予防医学といえる。ラウン先生であれば、昨今の北朝鮮核問題をどのように解決するであろうか。
浦島充佳◎1962年、安城市生まれ。東京慈恵会医大卒。小児科医として骨髄移植を中心とした小児がん医療に献身。その後、ハーバード大学公衆衛生大学院にて予防医学を学び、実践中。