「僕が自分について『ポジティブな性格だ』と言うと、部下からは『いえ、あなたはスーパーポジティブです』と言われるんです。苦境にあるときこそ、やるべき仕事がたくさんある。全てが順調で左団扇じゃ、あとは落ちるだけ。それってつまらないじゃないですか」
口癖は「4倍速」。「一人では無理でも、効率的なチームを作ればそれが可能になる」と部下に語る。
今年3月に同社の社長に就任した堤は異色の経歴の持ち主だ。前職はサムスン電子の日本法人社長、その前はアメリカのコンピュータ・ネットワーク機器大手・シスコシステムズに11年間勤めた。キャリアの振り出しは日本電気(NEC)だ。
日本、アメリカ、韓国、そして現在はオランダに本社を置くフィリップスである。これだけ多様な国と地域でマネジメントを経験している日本人は珍しいといえるだろう。
その彼が自身のキャリアの原点として挙げる時期が二つある。
一つはNEC時代、20代でアメリカのシリコンバレーに出向し、同社のマルチメディア事業の立ち上げに携わったことだ。
シリコンバレーの周囲にもまだ、畑が残っていた1990年代前半。ベンチャー企業が急速に増えていくのを目の当たりにしながら、「自由な発想とクリエイティブが何より重要とされる世界で揉まれた」と振り返る。後に勤めるシスコシステムズも、その中にある新興企業の一つだった。
「シリコンバレーの6年間は本当に素晴らしかった。会社から何度も『帰れ』と言われたのですが、頑なに『ノー』と答えていたくらいで」
二つ目は帰国後、当時の金子尚志社長の秘書を務めたことだ。
この期間中に当たる98年、防衛庁の調達をめぐる価格水増し事件で、NECは東京地検特捜部から捜査を受けている。関本忠弘会長が引責辞任し、金子社長も交代することになる汚職事件の渦中で、堤は一転、社長秘書として厳しい対応を迫られる日々を送った。
「大きな事件でした。あのとき秘書をしていて修羅場を体験し、ちょっとやそっとでは動じなくなりましたね。臨機応変に変化へ対応しながらも、自分の働く上での基盤をきちんと持つことの大切さを、この時期に学んだと思っています」
昨年11月にフィリップスへ移籍して以来、彼は全国に約80拠点ある営業所を回り、取引先である病院や顧客のもとで話を聞いてきた。
1891年に創業のフィリップスは、テレビなどが有名だが、日本では1950年代の松下電子工業への技術提供、ソニーと共同でのCD開発など、「イノベーション企業」を自負する。しかし、現在はそうした事業を次々と切り離しており、昨年には創業事業であったライティング部門もIPOした。
そして、健康・医療機器とITを結びつける「ヘルステック」をキーワードに、事業の転換を図っている。その事業転換に必要なイノベーションを日本から起こし、発信していくことが自らの役割だと堤は語る。
「MRIやCTといった医療機器を営業で売るだけではなく、これからはソリューションの商売をする。クラウドやビッグデータを活用すれば、さまざまな提案を医療現場にしていけるからです」
例えば、医療診断での病理検査。現在は結果が分かるまで1〜2週間がかかるが、これをデジタル化して検査の効率を上げる。
「とりあえずの結果がその日のうちに分かれば、患者さんだけではなく医師の負担も減るし、病院の経営も効率化できる。予防から実際の医療までのさまざまな段階で、診断システムや遠隔医療などのソリューションを提供するのが、私たちの『ヘルステック』の考え方です」
世界に先駆けた超高齢社会の日本で、いかに医療とITを結びつけるか。「好奇心が旺盛なので、違う環境に飛び込むのが何より好きなんです」と語る彼は、その挑戦を心から面白がっているように見えた。
「常に前向きに考えて、常にチャレンジし、常にイノベーションを目指すのが僕の信条。何よりも大事なのは、その環境を楽しむ姿勢だと思っています」
“スーパーポジティブ”と呼ばれる男の面目躍如たる言葉だろう。
つつみ・ひろゆき◎1962年、山梨県生まれ。85年慶應義塾大学理工学部を卒業後、NECに入社。2004年シスコシステムズに入社し、06年に取締役。また、07年にはスタンフォード大学ビジネススクール修了。15年サムスン電子ジャパンCEO就任。17年、現職に就任した。