二週間、三週間とほとんど野泊しながらの自転車での移動が続く中、暴風雨に遭遇して散々な目に遭ったり、食料も水も尽きて無人のホームセンターでペットフード(まずいが背に腹は変えられない)の缶詰とバッテリー液(精製水なので飲めないことはない)のボトルを漁ったりする。最初のうちは子どもらを叱咤激励していた義之だが、しだいに賢司や結衣の自転車の方が先を走るようになって、年齢による体力差が如実に出てくるところが残酷だ。
停電中の大阪にたどり着いた時、自分が家族、特に妻にあまり信頼されていなかったという事実に義之は直面する。やや強引な「ついてこい」タイプの義之の”父権”は、安定した生活の中でのみかろうじて保たれていたという事実。この長い旅は彼にとって、肉体的苦痛以上に、父の立場の崩壊をまざまざと知らされる苦しい旅となっている。
すべての電気が止まったら?というつくり手の想像力がもっとも発揮されているのは、水族館前のシーンだろう。モーターがいつまでも作動せず、予備電源も使えなければ、水族館の魚は死んでしまう。どうせなら、食料として提供すれば人々に喜ばれるはず‥‥。
ほとんど魚介料理の屋台会場と化した水族館前、せっかく長蛇の列に並んだのに順番が回ってきたところでちょうど配給が尽きてしまい、「どうか子どもだけでも!」と土下座する義之の、なけなしの父親らしさを振り絞った姿が痛ましい。
消費に慣れ切った都会人の大転換
パニック映画にしてほぼロードムーヴィーのこの物語で、印象に残る家族が2つ登場する。ひとつ目は、浜松の近くの路上で出会う斎藤一家。全員ウエットスーツに身を包み、キャンプの用具を一式持ち、食べられる虫や野草に精通したまさに「サバイバルファミリー」で、この事態をむしろ積極的に楽しんでいるかに見える。異常事態に乗じる、抗う、流されるという行動パターンがさまざまに描かれる中で、突如現れる”楽しむ”人々。それも、この家族が普段から電子機器にあまり頼らず、食料難に備え、どんな状況下でも生きていける知恵と技術を身につけてきたからだとわかる。一方で、この一家の母を演じるのが藤原紀香であり、その確信犯的に”ミスマッチ”なキャスティングからして、戯画化された空想の「サバイバルファミリー」の姿を描いているとも言える。