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2023.05.27

90年後の今届く超新星、宮沢賢治の光。「米国人をやめた」作家の献身と考察

筆者、宮沢賢治の銅像とともに(岩手県盛岡市材木町)

「京都からまいりました。私は宮沢賢治が大好きです!」

私は気がつくとこう口走っていた。

当時の日本では宮沢賢治の作品には人気があったが、日本を「代表する」作家としてはまだその名は知られていなかった。知られているとしても、もっぱら子ども向けの、ファンタジーの作家としてだった。欧米でも彼は全く無名だった。三島由紀夫は絶頂期、谷崎潤一郎は3年前に亡くなったばかり。その2カ月後には川端康成がノーベル文学賞を受賞、という時代だった。

清六さんは私を快く受け入れてくれた。その日から翌日にかけては、彼と町内の賢治ゆかりの場所を回った。幸運なことに、移転前の羅須知人協会(1926年に宮沢賢治が設立した私塾)の建物に入ることができた。家の裏手、北上川に続く坂の上には、チョークであの有名な文字「下ノ畑ニ居リマス」が書かれた黒板がかかっていた。裏木戸から下には、賢治が丹精して自耕したあの小さな畑もあった。

その後、花巻や東京で清六さんに何回か会った。1971年1月には一緒に京都に行き、比叡山頂を抜けて延暦寺「根本中堂」横の賢治詩碑も見に行った。

後方左から、賢治の画期的な伝記研究で知られる堀尾青史、宮沢清六、そしてこの詩碑を建立した、世界に知られる僧侶にして平和運動家の葉上照澄。そして前列左側にいる場違いな感じの若者は、オタクな賢治の翻訳家(筆者のわたし)である。 後方左から、賢治の画期的な伝記研究で知られる堀尾青史、宮沢清六、そしてこの詩碑を建立した、世界に知られる僧侶にして平和運動家の葉上照澄。そして前列左側にいる場違いな感じの若者は、オタクな賢治の翻訳家(筆者のわたし)である。

その後何度も訪れることになる花巻だったが、初めて訪れたこのときにすでに、筆者の心は、宮沢賢治の研究と翻訳に生涯を捧げることに定まっていた。1970年に名作『銀河鉄道の夜』を翻訳したが、出版したのは1983年、毎日英字新聞への週1回の連載というかたちだった。それ以来、日本語と英語の両方で賢治に関する10冊近くの本を出版し、多くの記事を執筆してきた。1960年代後半に彼の散文や詩に出会わなければ、私自身が作家になることもなかった、そう心から言える。

ファンタジーではない──賢治は「リアリズム」の作家だった

しかし、私にとって賢治は童話やファンタジーの作家ではなかった。私は「賢治リアリズム」という言葉を作り上げ、賢治の関心事があらゆる点で地に足のついたものであることを示した。当時、作品の中に、再生可能エネルギーや動物福祉の問題、そして「森羅万象の中の小さな要素としての人間」という視点を持っていた作家は、日本にも、おそらく世界中にもいなかっただろう。

ある意味で自伝的中編小説ともいえる『グスコーブドリの伝記』の中で、主人公の若者は、農民が作物を育て収穫し続けられるよう、気候を変えるために自らを犠牲にする。また、短編小説『フランドン農学校の豚』では、食肉用に肥育されていた豚が殺害されるのを拒む。21歳ごろ以降、賢治は動物の肉を食べることをやめたし、「仲間としての他の生き物」の権利と命を尊重する必要性についてしばしば書いた。
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文=ロジャー・パルバース(Roger Pulvers)/訳=石井節子

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