「憧れ」と尊敬は違う
何より重要だったのは、上下関係を重んじる日本文化の残念な面が出やすく、足を引っ張るであろう“憧れ”を「外していいんだ」と、サラりとかつ真摯な姿勢で発したこと。日本チームの選手たちもさぞ心が軽くなったことだろうと想像する。この言葉には、大谷選手自身の、米国での選手生活の中での実体験がこもっていたはずだ。
憧れを“やめる”ことは、相手を尊敬しないことではない、ましてや貶めることなどでもない。憧れと尊敬は違うのだ。
ましてやスポーツの世界では、相手を選手として尊敬しているのであれば、全力で立ち向かわなければかえって無礼だ。
勝負がつき結果が出る世界に身を置くのであれば、どちらが勝っても良い。恐縮して力を出しきれず、相手を勝たせたところで相手も不本意。舐めているのか?と思われ、本当は一番評価してもらいたい憧れの相手から、失望されるだろう。そんなことで勝って世間に讃えられても、その勝利の価値など当人たちは感じられない。
特に様々な勝負に向き合い全力で戦ってきた一流選手たちであれば、誇りを持てる自分の勝利としてカウントしない。後味の悪い試合としてお蔵入りにしたい気持ちになるかもしれない。
また、見ている観客たちも、軍配は上がったけれど、その勝者が一つも成長できなかったことはわかるだろう。社会的に影響力の高いスポーツであればあるほど、選手たちが試合本番で対戦相手に「憧れをやめること」はとても大事なのだ。
だからこそ、尊敬する相手には全力を出し切って向かっていくべき。その為に今は、憧れを捨てようということだったのだ。
ところで、大谷選手の発言の根源には、アメリカを始め世界で不可欠とされている「DEI(diversity多様性、inclusion包括性、equity公平性)」の中でも「公平性」が強く存在しているのではないだろうか。
公平性は、相手への尊重がなければ成立しない。そして望ましくは相手からも尊重が得られてこそ、感謝を伴って強固なものとなり、信頼も生まれて良い関係性として育っていく。
その証拠に、Fox Newsでアレックス・ロドリゲス選手らからのインタビューで答えている大谷選手は、彼らへの敬意や感謝を示しているし、ロドリゲス選手たちも大谷への尊敬を表している。