女王の死を「恐ろしい悲劇」と表現したニュースキャスターがいた。本当にそうだろうか? 多くの人々に愛された、すてきでしとやかな96歳の女性が、70年という長きにわたり国のために尽くした末、自宅で家族に見守られながら静かに息を引き取った。どこからどう見ても、尊厳ある死に方だった。これのどこが「恐ろしい」のだろう?
また、96歳の老体でありながら、自分の葬儀に関して計画を立てられるほどしっかりしていた人物の生涯が終わったことのどこが「悲劇」なのだろう? むしろ、喪に服す人々に便宜を図り、正式な儀式にのっとって素晴らしい形で女王を見送るという、配慮の行き届いた臨終だったのではないか。
もちろん、愛する人や尊敬する人の死は、たとえ事前に準備ができていようが、とても悲しくつらいものだ。時間がたつにつれ、喪失感が深まっていく。ごく自然なことであり、誰もがいずれ経験することでもある。
おそらく誰もが女王の死から多少なりとも学び、自国の人々が愛する人の死をどう扱っているのかを考えることができる。死を「任意」のものと捉えているのは、世界でも米国文化のみだということは、これまでも指摘されてきた。
自分自身や他の誰かが「もしも自分に何かあったら……」と口にする時のことについて考えてみてほしい。「もしも」とはどういうことか? 人生の終わりは「もしも」ではない。生き物にはすべて、誕生から死までのライフサイクルがある。「もしも」などと考えるよりも、英女王のように、死の何年も前から準備ができているほうがずっと良い。現実を直視して、自分の死に方や死後のことについての計画を周囲の人々に残すことは、王族でなくともできる。