このエッセイでの彼の主な主張は「人は学校で習った学問的な内容をほとんど覚えていない」ということに尽きる。彼の主張には3つの問題がある。それは他の学校教育批判者とも共通する問題だ。
まず「大人は学校で習ったことをほとんど覚えていない」という主張(「こんなものいつ使うんだ」という学生の不満のバージョン)は、一種の遡及的効用を裏づけるためにはタイムマシンを使う必要があるということだ。
2021年のワールドシリーズ第6戦で、アトランタ・ブレーブスがヒューストン・アストロズに7-0で勝利した。野球のルールを無視すれば、その得点は3回、5回、7回にもたらされため、アストロズを打席に立たせた時間は明らかに無駄であり、さらに誰も得点しなかったイニングをプレーする必要はなかったとなる。経済学者にいわせれば、最終的な結果に明らかに影響を与えない部分をすべてプレーするのは時間とお金の無駄ということだ。
もちろん、問題はゲームのどの部分が結果に影響するかは、ゲームが行われたときにしかわからないということだ。学生に対して「学習したことのうち、永続的に頭に残るのはごく一部だ」というのは簡単なことだ。それが本当だとしても(「永続的に残る」ことをどれだけ測定できるのか、私は疑問を持っているが)、その「ごく一部」に何が含まれるかを事前に知ることは不可能だ。
しかし、基礎学習の問題もある。ちょっとスポーツの例えを変えてみよう。
2021年のスーパーボウル(31対9でタンパベイ・バッカニアーズがカンザスシティ・チーフスに勝利)で、この試合の最大のプレーの1つは、タンパベイが8ヤードラインからエンドゾーンに入った、美しく小さな8ヤードのパスであった。効率化のために、最終スコアに明らかな影響を与える重要なプレーだけを流せば、試合はもっと短くなると主張することもできる。しかし、あのタッチダウンパスは、実際の得点に結びつかない他のプレーの積み重ねがあってこそ可能になったのだ。