設計・監修を務めたのは建築家の安藤忠雄。当時のアール・デコの建築様式とデザインが目を引く既存棟、安藤らしい打ちっぱなしのコンクリートを使った新築棟のふたつが見事に融合したホテルの魅力に迫る。
「愛ある落書き」を受け止めて
世界中の任天堂ファンにとって、ここは長らく「聖地」だった。当然、中には入れない。だから、彼らは訪問の足跡を「フェンスに落書き」という形で残していく。
「ホテルになると報道されてから、落書きの内容が一気に変わったんです。“Fuck this hotel”とか、“Wish be a museum”とか、“Mario isn’t here”とか。それって、ホテルになんかするな! という、すごく愛にあふれた言葉じゃないですか。これは本当に覚悟をもって進めねばと、気が引き締まりました」
そう笑顔で語るのは創業家の山内万丈(ばんじょう)。任天堂を世界的な企業に押し上げた中興の祖、山内溥の実孫にあたり、現在はファミリーオフィス「Yamauchi No.10 Family Office」の代表も務める人物だ。
ホテルの正面外観。左が安藤忠雄の手による新築棟、右が既存棟
「いま『任天堂』から連想されるのは華やかなゲームやエンターテインメントの世界かと思いますが、この建物が本社として使われていたときは、主に花札やかるたの製造・販売をしていました」
ホテル「丸福樓」は既存棟と新築棟に分かれ、既存棟にあたるのが1930(昭和5)年に竣工した鉄筋コンクリート4階建ての旧本社社屋。北から南へ、事務所棟、住居棟、倉庫の3棟が建てられ、1959(昭和34)年までの約30年間、使用されていた。今回、安藤忠雄の手による新築棟が建ったエリアは、もとは庭だったという。
「丸福樓」という名は、任天堂の前身である「山内任天堂」が1947(昭和22)年に設立した「丸福株式会社」に由来し、過去のトランプ製造にちなんで、元住居棟はハート棟、元倉庫はクローバー棟、新築棟はスペード棟、ダイヤ棟と名づけられた。
正面玄関からロビーへと続く廊下。当時は事務所棟として使用されていた