人生で一番辛かったよ
悲しい別れもあった。
24歳の頃、共に生きていこうと誓った女性がいた。しかし女性の家族が水商売をしているからと、家族から強い反対に遭った。親族会議が開かれ、女性との結婚を諦めることになった。
「人生で一番辛かったよ。今でも引きずってる」。家族とはそれ以降、没交渉だ。
金融機関を辞めた後は期間工として働いた。スバルの群馬の工場や、三洋電機の工場。日本の車や電化製品が世界で爆発的に売れていた黄金の時代を、労働者の一人として支えた。
建設現場で働くことも多かった。丸紅倉庫、茨城県庁、アマゾン物流センター。数ヶ月から数年の期間で各地の建設現場に派遣され、肉体を酷使した。体格の良さは長年の労働で培われたのだろう。
一昨年の夏、幕張の建設現場でダクトを運んでいた。エレベーターがないため、32階の階段を一日に何度もダクトを抱えて往復する仕事。上から下まで往復すると小一時間かかる。トイレに行く時間が限られるため、自ずと水分摂取を控えていた。暑い夏だった。
熱中症で倒れた。「あの夏、体を壊した人は多かったよ」。一週間入院した。
これを機に、建設現場での仕事はやめた。実際のところ、建築・土木の求人は減り続けている。それ以降は「輪番」と言われる日雇いの公園掃除やガードマンなどの仕事で食いつないでいる。
そして昨夏、ホームレスになった
退院したらアパートの契約期限が切れていたため、アパートを出た。その後、日雇い労働者のためのケアハウスに入った。
月2万6000円で入居できるのはありがたかった。しかし、次第にストレスを感じることになる。朝早く出ていく人もいれば、夜勤の人もおり、出入りが激しく落ち着かない。知らない他人同士、人間関係が難しく、人の機嫌をうかがうことに疲れてしまった。
そしてカネハラさんはケアハウスを出て、ホームレスになった。昨夏のことだった。
「泪橋」交差点の周辺で、路上で寝起きするようになって1年余り経った。
危険なこともある。寝込みを襲われそうになったことがあったため、寝る場所は固定化させず、数日ごとに移動するようにしている。仲間のなかには外国人に寝込みを襲われ、足を半分失った人もいるという。
穏やかな人柄で、知性があって、真面目に働いてきたにもかかわらず、なぜホームレスとして還暦を迎えることにならないといけないのか。同じ境遇の仲間には、元警官や元教師もいるという。
自身の現状をどうみているのか、尋ねた。
「悠々自適ですよ」。今、80歳でも90歳でもアパートに入ろうと思えば入れるのだという。寝る場所こそ路上だが、センターもあるし、支援者もいるし、近くの公園や教会で炊き出しはあるし、無料のクリニックもある。収入は少ないものの日雇いの仕事もあり、タバコやお酒、銭湯に行くぐらいの小銭はある、ということらしい。「サバイバル訓練をやってるんですよ」と笑う。
企業戦士サラリーマン、かっこいいね
「普通にサラリーマンをやっていれば、それなりの収入があったかもしれないね。結婚して家庭もあり、本来なら真っ当な人生が送れたかもしれない。でも、すべては過ぎたことだから」
サラリーマンはカネハラさんの目にどう映っているのか。「企業戦士ですよ、純粋にかっこいいね。みなさんが一生懸命働いて納税してくれているから、僕ら生きていけるんだから。ありがたいですよ」
10人いれば、そのうち6人は自分の人生を肯定でき、4人は後悔しているのではないかと語る。「勝ち組と負け組でいうと、完全に負け組の方だけど、でも6人の方ですよ、僕は。好きなことをやったから」。自ら選んだホームレスという生き方を、それなりに楽しんでいるようにも見えた。
山谷という地域は実は、想像していた以上に綺麗だった。街をくまなく歩いても、嫌な匂いはほとんど感じられない。スカイツリーを望み、外国人のバックパッカーも増え、徐々に変わりゆく街だが、路上で逞しく生きている人たちが静かに存在しているのだ。2019年の現在も。
15年前、浪人生として上京した筆者は、一駅ごとに全く違う表情を見せる東京という都市の奥深さに圧倒され、魅了された。どこに行っても人が溢れ、昨日駅ですれ違った人が今日ひっそりと亡くなっていても誰も気づかないだろうといったことに思いを巡らせては、勝手に目眩を起こしていた。
一方で、だからこそ、ここに生きる人のさまざまな有様を描きながら、この都市を理解していきたいという思いが募った。
Forbes JAPAN Webでは、連載「#東京の人」をはじめます。2度目の五輪開催を控える東京。この都市が包摂する多様性や危うさ、まだ見ぬ可能性を、東京でもがきながら生き抜く人々の“酸いも甘いも”のストーリーと、フォトグラファー・小田駿一の写真を通じて描いていきます。
パリと東京、服と性を問い直す。ファッションデザイナー末定亮佑の反骨 #東京の人