しかも、「上司からの指示もガイダンスも何もない」という放任である。山下が派遣された1993年は民主化の始動期で、PKOも入っておらず、現地にいるのはUNDP(国連開発計画)やユニセフなど、専門機関の小さなチームのみ。ここで、彼女は孤軍奮闘、新政権が立ち上がるまでの選挙支援を行うことになった。「チームワークより個人勝負という環境でもまれました」と山下は振り返る。
山下はその後、アンゴラ、ジンバブエ、アルメニア、クロアチア、2007年からはミャンマーなど、軍事独裁、内戦、民族浄化といった地域に派遣され、政務官として選挙支援や新政府立ち上げに携わる。今は、政治的アプローチによる平和構築のエキスパートとして、ニューヨークの国連本部で重要なポストにつく。
しかし山下は「フィールドが一番楽しい」と語る。現地の人が何を思い、国連に何を求めているのかを実感できる。「国連が最後の望み」。そう言われた時には、この仕事に携わってよかったと、心の底から感動した。
原点は、幼い頃に移り住んだ各国の情景だ。日本人の父とフィンランド人の母をもつ彼女は、インドや西ドイツで過ごした。「東西統一の時は、特に感慨深かったです。冷戦も終わって、国際的に希望に満ちあふれていた時期でした。私は大学からも国際関係や国連について勉強していたほど、マルチナショナル主義を信じている人間だったので、 国際社会が変わっていくんだ、とすごく嬉しかったです」。
彼女はアフリカやアジアの国で、「敗戦から立ち上がった日本から来た人」と大歓迎を受ける。そんなとき、彼女は自分の中に半分流れる日本人の血を思い、平和な国家の理想形を考えるのだった。
Q1. 人生で最も辛かった経験は?
国連に入って初めての出張。民主化へ向けて動き始めた頃の情勢が不安定な中央アフリカ共和国に一人で派遣された。
Q2. ターニングポイントは?
25歳で国連競争試験に合格したとき。高校生の時から一途に思い続けてきた「国連で働く」という夢が実現したから。
Q3. 影響を受けた実在の人物は?
猪口邦子氏。上智大学在学中に授業を受け、当時の女性教授のイメージを一新する、若く、賢明で輝く印象に憧れた。
Q4. 原動力となる言葉
「自分の好きなことに確信を持つこと」。情熱を持ち、自分を信じて行動してきたことが今につながっている。
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