「Red Sea」と呼ばれ、チームカラーのカーディナル・レッド一色に染まるブッシュ・スタジアムの客席で観戦すると、セントルイスは、野球に対する造詣が深く、祖先代々から続く筋金入りの頑固な野球ファンが多い野球の街であることを肌で感じることができる。ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴなどの大都市のファンを熱狂的な集団と表現するなら、セントルイスのファンは、忠誠心が強い威厳と品格に満ちた集団と言えるだろう。
フォーブス誌が実施した市場規模に応じた観客動員数、テレビの視聴率、球団グッズ販売額などに基づいた調査でカーディナルズは堂々の一位に輝いたことがあるし、ブッシュ・スタジアムの隣には、かつてガスハウス・ギャングと呼ばれたカーディナルズの100年以上にわたる華麗な歴史が集約され、球団の博物館としては、全米でトップクラスの充実度を誇るカーディナルズ殿堂博物館がある。
アメリカ中西部、ミズーリ州のセントルイスの街並み(Getty Images)
この中西部の小さな街は、何故、こんなに野球が盛んなのだろうか。それは、あるスポーツ新聞がこの街で創刊したためだと言われている。
1882年のアメリカン・アソシエーションの創設に尽力したアルフレッド・ヘンリー・スピンクという名のスポーツ記者は、1886年、セントルイスでスポーティング・ニューズを創刊した。創刊当初は、8ページしかなく、スポーツと劇場の案内を掲載しただけの小冊子だったが、やがて映画や演劇の情報をなくし、野球情報だけを掲載するようになった。
日本では、スポーツ新聞といえば、スポーツ以外にも芸能や娯楽など、広範にわたって扱っているが、スポーティング・ニューズは、1966年に他のスポーツ情報を掲載するまでは、野球一本を貫き、業界を代表する紙媒体として君臨し続けてきた。救援王、最優秀監督賞、最優秀経営者賞などを考案したのも同社だ。そんなアメリカを代表するスポーツ新聞が創刊された街で育ったセントルイスっ子が野球通になるのは当然のことだった。
ファーム(二軍)制度が誕生したのもセントルイスだ。カーディナルズのジェネラル・マネージャーだったブランチ・リッキーは、1921年にインターナショナル・リーグのシラキュース球団を買収し、カーディナルズの傘下球団にした。これがきっかけとなり、次々と他の球団もファーム・システムを確立するようになった。弁護士資格を持つリッキーは、後に移籍したドジャースでジャッキー・ロビンソンをデビューさせ、黒人選手に門戸を開放したことでも有名だ。
長年、カーディナルズの監督を務めたトニー・ラルーサも弁護士資格を有する数少ないメジャーリーグの監督経験者のうちの一人だ。そういえば、ラルーサのお気に入りだった田口コーチも公立の西宮北高校から指定校推薦で関西学院大学に入学した優等生だ。セントルイスは、野球に対する造詣が深いファン、高学歴のフロント、監督、選手が集まる球界随一のインテリ集団の街なのかもしれない。