2024年11月には、日本が主導する形で、ウェルビーイングを促進するためのガイドラインが国際標準化規格として発行された。
この取り組みとその狙いについて、国立研究開発法人産業技術総合研究所(以下、産総研)情報・人間工学領域 副領域長の佐藤洋に話を聞いた。
近年、高齢化が進む社会において「ウェルビーイング」という概念が注目を集めている。
心身の健康、個人の幸福はもとより、企業における生産性向上や経済成長、Quality of Workingといった考え方にもウェルビーイングの概念がもち込まれ、企業や組織は対応に追われている。
昨今のウェルビーイングをめぐる状況について、佐藤が概説する。
「ウェルビーイングは世界的にも注目されており、関連する論文の数も急増しています。この概念に資する研究がグローバルで進むなか、近年は行政や政治の文脈からもどう解釈して実践していくのかに重点が置かれ始めています。日本であれば、健康経営や人的資本経営。経産省が掲げる健康優良企業認定も“ウェルビーイング経営”の取り組みであり、それぞれの企業がさまざまやり方で乗り出しています」(佐藤)
その象徴的な例として挙げられるのがイギリスだ。同国は10年より「The Measuring National Well-being(MNW) programme」をスタート。これは、ウェルビーイングに関する項目を50近くの要素を円環状に配した“ウェルビーイングの輪”モデルに基づいて行政施策に対するフィードバックを反映し、国のウェルビーイングを涵養していく試みだ。今やウェルビーイングの概念に基づいた組織運用は、国家にまで及んでいる。
日本が主導したウェルビーイングのガイドライン
国際的にウェルビーイングの重要性が認知されるなか、日本が主導する形で開発された国際標準化規格(ISO)が「ISO 25554」だ。「ISO 25554」は「Ageing societies – Guidelines for promoting wellbeing in communities(高齢化社会―地域や企業等におけるウェルビーイング推進のためのガイドライン)」として、24年11月に発行された。当規格は、17年に設立された国際標準化機構の専門委員会「ISO/TC 314(高齢社会)」に呼応する形で、健康経営を推進する一般社団法人社会的健康戦略研究所とISO/TC 314の国内審議団体である一般財団法人日本規格協会、そして産総研とが連携・協力して開発を提案。「日本の健康経営を国際化する」という目的のもと、21年に規格開発がスタートするとワーキンググループが組成され、ISOの規格開発を得意とする産総研の佐藤が議論の進行役を任された。
このワーキンググループには、カナダやスウェーデン、フィンランド、中国といった約20カ国から研究者はもとより、労働組合や人権活動家といった専門家が参加。最初の会議では、侃々諤々の議論となったものの、ウェルビーイングの定義自体が多岐にわたってしまうため「何の結論にも至れなかった」と佐藤は振り返る。
そこで、当規格では「ウェルビーイングとは何か」という定義をしないことを決定。
「個⼈と集団のウェルビーイングはリーダーが合意を形成したうえで⾃分で決める」「持続的にウェルビーイングを向上させる仕組みを提⽰し宣⾔する」ことを基本的合意事項として、2年半にも及ぶ議論を通じて規格化を進めていき、“ウェルビーイング推進のための世界共通のガイドライン”を発行するに至った。
このガイドラインでは、企業や地域、地方自治体などあらゆる組織グループが「自分たちのウェルビーイングをこういった形で実現する」というコンセプトを宣言。そして、そのコンセプト実現を目標としたアウトカム、さらには定量的な評価指標や方法を設定する。
その後、組織グループが提供するサービスや製品を需要者に提供し、そこから出てきたアウトカムと評価指標を比較してコンセプトの達成度合いを確認していく。この比較検討を通じて上手く回っていないようであれば、サービス・製品あるいは評価方法を見直し、継続的にその組織グループが定めるウェルビーイング実現を改善していくためのフレームワークを提示している。
「例えば、地方自治体で地域住民のウェルビーイング向上を目的とした健康促進イベントを行うとします。しかし、大勢の参加者が来て終了後の満足度も高かったからウェルビーイング施策として成功、とはなりません。『地域住民のウェルビーイング向上』を目的としながら地域外からの参加割合が高かったかもしれないし、個人的な満足度だけではウェルビーイングの評価指標として不十分な可能性も大いに考えられるからです。
私たちは全国の地方自治体の取り組みなどの大規模調査も行いましたが、いわばこうしたウェルビーイングのPDCAを回して次の施策にフィードバックする改善ループをきちんと構築できている自治体は一割にも及びませんでした。私たちは何を目指して、どのような成果を求めているのか、そのために必要なエビデンスやその取得方法も踏まえてサービス設計をして、フィードバックを反映していくーーこの1セットすべてを、組織グループのリーダーが音頭を取って決めていくことが重要だと考えています」(佐藤)
つまり、当ガイドラインは、ウェルビーイング実現に向けた仕組み化の基礎を担う役割を果たすこととなるということだ。
国際標準化によって加速するウェルビーイング
産総研ではこれまでも、健康・医療ビッグデータに基づいた医療関連技術やモニタリングを活用したヘルスケア技術、AIやロボットを援用した人間拡張技術など、ウェルビーイングにつながる数多くの研究を手がけてきた。そのほか、ウェルビーイングの構成要素を抽出して人間のウェルビーイングをモデル化する研究や、企業とタッグを組んで人間の労働意欲や生産性向上に寄与するロボット/デバイスの活用を検討するコンソーシアムを立ち上げている。これらもまた、ウェルビーイングを実現するためのプロジェクトの一環と言えるだろう。
従来のウェルビーイングの文脈では、おもに医療とヘルスケアといった領域が語られることが多かった。しかし、これらはあくまでもウェルビーイングを構成する一要素だ。産総研でも今後は人間の健康だけでなく、組織のあり方や働き方、社会とのつながりといった、より広義のウェルビーイングに取り組んでいかなければならない。
その一丁目一番地となったのが、今回の国際標準化規格の策定だった。
ISO25554の意義を、佐藤は「さまざまな研究者や企業がウェルビーイングという絵を描くための真っ白なキャンパスを用意したこと」と説明する。当規格を“キャンパス”として、人々は医療やヘルスケア、あるいは組織や環境に関する多種多様な技術や取り組みといった“画材”を使い、自分たちが考える人間のより良い状態、良き生活としての“ウェルビーイング”を描けるようになったと言うのだ。
ビジネス的な展開としては、例えば、すでに世の中に溢れている健康管理サービスに蓄積されている健康情報を、当規格のもとで個人のウェルビーイングとして統一・マネジメントするサービスが現れるかもしれない。ほかにも、国際標準となった当ガイドラインに沿う形で、組織の健康経営の仕組みを回していくデジタルシステムの開発なども考えられるだろう。
このように、当規格によってウェルビーイング促進のフレークワークが示されたことで、これに沿った取り組みやソリューションを打ち出す組織が増えていくことが期待できるだろう。一方で、今後はそのクオリティ・コントロールが課題になると、佐藤は言及する。
「ISO 25554に基づいて健康経営を実現する企業や地域団体の存在は、私たちとしても非常に嬉しい限りです。一方で、実際にはしっかり運用できていないにもかかわらず、プロモーション的に当規格に準拠していることを謳う企業が登場する懸念があります。そこで、世界中から当規格を採用した優れたユースケースを集めて、テクニカルレポートとしてまとめたうえで外部に発信していく企画を進めています。また、その事例をもとにガイドライン自体の見直しなどもしていくつもりです。より将来的には、ウェルビーイング経営のあり方を国際的なマネジメントシステム規格へと昇華させ、組織に対する認証事業にまでつなげていければ、と考えています」(佐藤)
経営者や投資家によって発見される社会的価値
ウェルビーイングの裾野が広がるなか、国際標準のガイドライン発行を実現した産総研はウェルビーイングにつながり得る数多の研究、産業化に取り組みながら、その門戸を広く開いている。「産総研は個々の分野のスペシャリストを数多く有していますが、ここで育まれる研究や技術をどのような社会的価値につなげていくか、といった議論は、正直なところ十二分に尽くしているとは言えません。ウェルビーイングという観点を導入することで、さまざまな研究や技術をビジネスへと展開し、社会的価値を生み出せるようになるはずです。そのためにも、社会を動かそうとしている経営者や投資家、つまりビジネス側の目線から私たちがもっている技術の社会的価値を発見してもらいたい。ゆくゆくはウェルビーイング×テクノロジーといったテーマで、経営者や投資家の方を交えたピッチイベントなども実現できるといいですね」(佐藤)
最後に、佐藤は産総研がウェルビーイング研究を進める理由を改めて語る。
「産総研の社会的な役割のひとつとして、世の中に多様な技術的オプションを提供することがあると捉えています。産総研がウェルビーイングな社会を目指している事実を発信すると同時に、今回の国際標準化規格をはじめ、私たちの技術や成果をさまざまな人にそれぞれの考え方で使ってもらいたい。
産総研では広大な領域での研究が行われていて、企業から相談を受けた場合には、目的達成のためにより適した研究・技術を提案することもできます。そうやって、社会のニーズを満たすためのさまざまな研究や技術を用いたシナジー、あるいはエクスポネンシャル・テクノロジー(指数関数的に発達していく技術)を生み出す力がある。
私たちの研究や開発技術が、ウェルビーイングという社会的価値につながる形で結実することで、産総研が力強いパートナーだと感じてもらえたら嬉しいですし、人々のより良い生活の実現に貢献していければと考えています」(佐藤)
ウェルビーイングに関する国際標準化規格(ISO)「ISO 25554」に関する詳細はこちら
さとう・ひろし◎国立研究開発法人 産業技術総合研究所 情報・人間工学領域 副領域長。東北大学大学院工学研究科をへて、2004年に産業技術総合研究所に入所。その後、ヒューマンライフテクノロジー研究部門や人間情報インタラクション研究部門長を経て、23年より現職。