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2023.11.30

峠の向こうに何が見えるのか──登山家・モンベル会長 辰野が「山」を軸に切り拓く経営の新たな道とは

2年後に創業50年を迎えるモンベル。日本のアウトドア用品市場を牽引してきた企業だ。全国に126店舗、スイスに2店舗、米国に1店舗を展開。登山用具を中心に、約4,000点の製品を世に送り出す。グループ年商1,000億円、従業員は1,200人を超えた。災害時の被災地支援や環境保護、エコツーリズムを通じた地域活性化などでも知られ、社会貢献企業としても高い評価を受けている。その起業ヒストリーは一見、型破りで異端の連続に見えるが、実は極めて「物事の道理」に叶っていた。


モンベルを28歳で創業した辰野勇(76歳)は、自身、世界有数のアルピニストだった。子どもの頃から、山に憧れて育った。

「アジア人として初めて日本山岳会がマナスル登頂をしたりして、当時は空前の登山ブームが起きていました。でも僕は小さい頃から体が弱かった。山への憧れは、それも大きかったのかもしれませんね」

小学生の頃は、まだ登山道のない近所の山に登ったりした。冒険は大いなる楽しみだった。そして16歳のとき、人生を決定づける出来事が起こる。国語の教科書に載っていたオーストリアの登山家、ハインリッヒ・ハラーの『白い蜘蛛』の一節に衝撃を受けたのだ。

「スイスのアイガー北壁の上部から3分1ほど降りていったところに、白い蜘蛛が手足を広げたように見える氷壁があるんです。そこを通らないと頂上に行けないんですが、途中で雪崩に遭遇して、あわや遭難しそうになるんですね」

ハラハラドキドキの冒険世界に強く惹かれた。当時、アイガー北壁には、まだ日本人は誰も登っていなかった。ここに登る。16歳の辰野はそう決意した。家に帰ると最初にしたのは、貯金箱をつくることだった。そして岩登りの練習も始めた。

高校卒業後、大学には進学せずに登山用品の店に就職。21歳のとき、世界最年少でアイガー北壁登攀(とうはん)に成功する。

「横浜から船でロシアに渡り、ナホトカ、ハバロフスクからシベリア鉄道でスイスに向かいました。現地で40日、ベストの天気を待ち続け、ようやく頂上に到達したら、目の前にマッターホルンが見えましてね。すると、そこにも登りたくなって(笑)。ワンシーズンで2つの北壁の登攀に成功したのは世界初でした」

アイガー北壁登攀

アイガー北壁登攀

「会社の口座はゼロ」からのスタート


実は16歳で、もう一つ決めていたことがあった。それが、28歳で起業すること。山に関わる仕事に就くことしか考えられなかった辰野が考えた選択肢は2つ。登山ガイドになるか、山の専門店を開くか。しかし、帰国後に縁あって就職した総合商社で大きな出会いがあった。繊維だ。「新しい繊維が生まれていて、これで登山を変えられると思ったんです。幸運な巡り合わせでした」と、当時を振り返る。

28歳になると、予定通り起業の準備を始めた。資本金の200万円は母親に借りた。だが、法人登記を済ませるとそのまま返却してしまう。会社の口座の残高はゼロになった。

「昔からそういう性格なんですよ。でも、商売ってお金がないほうがいいと僕は思っているんです。知恵を使うことになるから。大事なことはお金を回転させることではない。無から有をどうつくるか。そして、人間としての信用をいかに高められるかです。それが一番大事なことではないですか」

自分に負荷をかけ、課題を与え、解決していく喜び。まさに登山家の発想だ。これまでの経営における苦労や危機について聞いても、そんなものはなかったと断言する。

「よく聞かれるんですが、苦労なんてしないほうがいいでしょう。苦労しないような経営をしたらいいんです。苦労することがいいことだ、みたいな話は好きではない。山登りは、一度の失敗で死の危険がある。死なない登山をしないといけない」

事業は、登山家の自分たちがほしいものをつくること。例えば、新しい繊維を使った寝袋。軽量・コンパクトで、しかも温かく、肌触りも良かった。それまでの寝袋に同じような不満を感じていたユーザーから、たちまち支持を受けた。業績は順調に拡大していった。

売上の1/4を手放す決断、「型破り」な改革


辰野の経営の特色は、形から入っていないことだ。こうあるべき、こうすればうまくいく、といった一般的な経営の考え方に左右されることなく、自分自身で考えて経営する。例えば、組織を拡大する必要性についても、こんなふうに考えた。

「両親は寿司店をやっていました。これは家業。仲間が増えていったら、いずれのれん分けでもするしかない。だから目指したのが、組織をつくることでした。しかし、社員が増え、彼らがいずれ年を取っていくとなれば、当然支払う給料を上げていかないといけない」

辰野が出した答えは、組織を大きくし続けることだった。若い人材を採用し、常に平均年齢を低くしておく。売り上げを大きくするため、ではない。社員が安心して働くことができ、なおかつ競争力を高め、会社をつぶさないために組織を大きくしていくことを考えたのだ。

「僕が目指してきたのは、終身雇用の日本的経営です。これは、先が見えるんですよ。なぜそうしたかって、恐がりだからです。山男は恐がりで、将来のことを心配するんです」

さらに創業から12年目の1987年、驚くべき決断をしている。総売上の4分の1を占めていた事業を手放してしまったのだ。パタゴニアとの提携だった。

「たまたまドイツのパーティで創業者と出会って意気投合して、日本でぜひパタゴニア製品を扱ってほしいと言われたんです」

しかし、パタゴニア商品が売れるほどモンベルの存在意義は薄くなる。たとえ売上高の4分の1を失っても、パタゴニアと決別しなければいけないと考えた。

「当然不安はありましたが、この年は結果的にモンベルの売上高が2倍になったんです。二兎を追うもの、一兎を得ず、なんです。この決断がなかったら、今のモンベルはないと思います」

パタゴニアには、日本での自社販売を勧めた。そのための支援もした。両社が納得した上での、円満な別れとなった。

もう一つ、よく知られる大胆な改革がある。当時のモンベルは、メーカーとして小売店である登山用品店に商品を卸すビジネスを展開していた。1995年、業界が仰天する取り組みを打ち出す。「価格リストラ」だ。当時は、小売店がメーカー希望小売価格の2割引から3割引で販売することが常識だった。小売店は、他店よりも低い価格で販売しようとした。小売店同士が他店の価格に戦々恐々とする時代だったのだ。辰野は、これが健全な状態とは思えなかった。それならば、と卸売価格はそのままに、希望小売価格の定価を最初から3割下げてしまったのだ。こうすれば、小売店での無用な値引き競争もなくなる。小売店からも喜ばれた。

「常識破り、タブー破りと言われました。どうしてそんな判断ができたのか、と聞かれることもあります。でも、大切にしたのは単純にそれが道理に適っているか、だけなんですよ」

驚くべき経営判断といえば、もう一つ、「モンベルクラブ」がある。1985年にスタートした会員制度だ。入会すればカタログや会報誌が送られてくる。今はポイントや割引サービスがあるが、開始当初はなかった。それでも、年会費を1,500円と定めた。単なる顧客の囲い込みを狙った営業目的の会員獲得ではなかったからだ。

「無料で募ったら、会員はあっという間に増えていったでしょう。でも、それで本当に継続できるのか、と思ったんです。カタログも会報誌も、費用をかけてつくるわけですから」

実は今、モンベル会員は118万人もの規模になっている(2023年11月時点)。会員から集まる年会費は約17億円。有料会員にしていなかったら、果たして会員制度を存続できただろうか。

「また、皆さんの会費のうち50円をファンドに回し、毎年寄付をしているんです。これは、会社からではなく、モンベルクラブ会員からの寄付なんですね。もし会社からであれば、業績が悪化すれば寄付できなくなってしまう。会費からであれば、会員の皆さんがいる限り寄付活動も続けることができます。ここでも、持続性が大事だと思ったんです」

ヒット商品を次々に世に送り出し、アウトドア用品で圧倒的なブランドを築いているモンベルだが、辰野はマーケティングやブランディングといった言葉を嫌う。

「お金儲けのためにテクニカルな手法を使うのは、ちょっと違うと思っているからです。お金儲けが命題で、その命題のための道具だてが登山なのであれば、それでもいいのかもしれません。でも、我々は違うんです。登山があって、それを突き詰めていく先に、いろんなニーズが見えてきた。すべて結果論なんです」

こうありたい、思われたいというブランドイメージが先にあるのではない。やりたいこと、やったことを積み上げた結果がブランドイメージになるのだ。取り組んでいる数々の社会貢献活動も同じ考え方のもとで展開されてきたものである。

モンベル 代表取締役会長 兼 CEO 辰野勇

モンベル 代表取締役会長 兼 CEO 辰野勇

山に関わる人間として、やるべきことを


大阪を拠点に順調に事業を拡大させていた1995年、阪神・淡路大震災が起こった。モンベルは、いち早く独自の判断とルートでテント500張、寝袋2,000個のアウトドア用品を被災地に配った。

「社会貢献をやろうと思って被災地支援をしたわけではないです。困っている人がいたら、助けるでしょう。しかも、僕たちはテントや寝袋をつくっているわけです。人間として、やるべきことをやっただけです」

だが、当時モンベル1社だけではできることは限られる。そこでアウトドアに関わる個人や団体に支援要請状を200通ほどFAXで送った。続々と届いた協力承諾の連絡に、辰野は鳥肌の立つ思いがしたという。活動名「アウトドア義援隊」は、後の東日本大震災でも多くの支援活動に携わった。

10年ほど前、辰野はふとひらめいて、自分たちに何ができるのかをリストアップしてみた。それが現在、掲げられている「7つのミッション」だ。

①自然環境保全意識の向上、②野外活動を通して子どもたちの生きる力を育む、③健康寿命の増進、④自然災害への対応力、⑤エコツーリズムを通じた地域経済活性、⑥一次産業(農林水産業)への支援、⑦高齢者・障がい者のバリアフリー実現。

「アウトドア用品の製造販売の場合、これだけのことができる。これは、まさに日本が抱えているさまざまな問題の解決に役に立てると思ったんです。特に過疎に悩む地方自治体では、7つのすべてが必要とされています。これらを通して、一緒に地域を元気にしていけると考えたんです」

2008年、人口2万人の鳥取県大山町に請われ、中国地方で初めてモンベルを出店した。人口や商圏を考えれば、出店の判断には至らない地域だ。しかし、モンベルの存在が町の雰囲気を変え、驚くほどの業績を出した。これを皮切りに、全国から声が寄せられるようになった。現在、133カ所の地方自治体、団体、大学などと包括連携協定を結んでいる。

「山に関わる事業というのは、社会的な役割があるんだと思います。僕は今、京都大学で特任教授を務めていますが、アウトドアリテラシーという学問が出てきてもおかしくないと思っています。レジャーや遊興ではなく、野外活動の本質が学べる場です」

辰野に、アントレプレナーとしての熱源を聞いてみた。

「それは好奇心、sense of wonderでしょう。あの峠の上まで行ったら、向こうに何が見えるのか。行ってみたいな、と登山で思ったのと同じです。あの人口2,300人の過疎の北海道 南富良野町にモンベルをつくったら、どんな反応が来るかな、と。面白いじゃないですか」

71歳になって、50年振りにマッターホルンに登った。21歳のときに頂上から見た景色を、もう一度見たかったのだという。

「経験のないこと、まだ誰もやっていないことをやろうとするとき、可能性が50%ならやりません。でも、51%あるなら、49%のリスクを取ります。僅差は1%なんです。そして99%の可能性があっても、最後の1%はやってみないとわからないと思っています。要するに49%のリスクに対して、どれだけの準備をして、その確率を下げられるかです」

登山と経営はよく似ているかもしれない。辰野はそう語った。登山家が生み出した企業は、今も世の中から必要とされ続けている。


辰野勇
1947年大阪府堺市生まれ。大阪府立和泉高等学校卒業。69年にアイガー北壁に挑み、当時の世界最年少(21歳)での登頂に成功。1975年、28才の誕生日に株式会社モンベルを創業した。自分たちのほしいものを作ることをモットーに登山用具を開発、製造、販売を行う。その後、モンベルは地方自治体や大学、企業など133もの団体との間に「包括連携協定」を締結。これらの団体や、モンベルクラブ会員118万人とともに、より良い社会環境構築を目指している。

モンベル
大阪本社/大阪府大阪市西区新町町2丁目2番2号
URL/https://www.montbell.jp/
従業員/1,280名(2023年11月20日時点)

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