2050年に向けてセイコーエプソンが掲げているふたつの目標は、どちらも非常にチャレンジングである。しかし、同社の歴史や想い、実際の取り組みを知れば、それが不可能なことではないと思えてくる。セイコーエプソン代表取締役社長の小川恭範に話を聞いた。
なぜ、セイコーエプソンは「自然との共生」を謳うのか
1999年にLIFE誌が発表した「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている唯一の日本人、葛飾北斎。この稀代の芸術家は、連作「富嶽三十六景」のひとつとして長野県の諏訪湖から見える富士山を描いている。
それが大和工業(メインの写真奥に今も残る当時の社屋/現在は創業記念館として復元され、史実や歴代の製品とそれらにまつわるストーリーを公開中)であり、同社がセイコーエプソンとして世界規模での発展を遂げた現在においても、創業の地である諏訪湖のほとりに本社は置かれ、雄大な自然の風景と向き合い続けている。
「セイコーエプソンの前身である大和工業を創業した山崎久夫は、『絶対に諏訪湖を汚してはならない』という想いをもっていました。
諏訪には清らかな水と空気があり、夏も湿度が低く、気候条件がスイスに似ているので精密機械産業に適している——。そう考えた山崎は『諏訪を東洋のスイスに』という志を抱いて、『輪振り』と呼ばれる時計部品の組み立てから事業を興しています。つまり、創業の契機となり、事業発展の命脈でもあったのが、諏訪の豊かな自然環境なのです。自然と寄り添い、共生していく意識の強さこそ、セイコーエプソンが有する企業文化の根本と言えるでしょう」
当然ながら、現在のセイコーエプソンで社長を務める小川恭範も創業者の想いを今に受け継ぐひとりだ。脈々と受け継がれる創業者の想いが、ひいては世界初のクオーツウオッチなど新たな価値創出につながり、現在ではプリンターやプロジェクター、産業用ロボットなど多岐にわたる事業を展開している。同社の歴史は、自然との共生の歩みに他ならない。
フロン削減ではなく全廃を達成
私たちが住み暮らす地球では1970年代にハロゲン系ガスが成層圏のオゾン層を破壊することが確認されたことを受け、1987年に国連環境計画のもとでフロンの生産・消費を規制する「モントリオール議定書」が採択されている。「その翌年エプソンは『フロンレス宣言』を行い、この年を自社にとっての『環境元年』と定め全社が一丸となって具体的な行動を開始しました。1992年には世界に先駆けて日本国内の拠点で洗浄用特定フロン全廃を達成。1993年にはグループ全体、すなわち全世界において全廃を成し遂げています」
フロンはかつて多くの家庭や業務用製品に広く用いられ、精密機器の産業における部品の洗浄プロセスでも使用されてきた。『フロンレス宣言』を現実のものとするためには、その洗浄プロセスをフロン代替技術に置き換えていかなければならない。
「いえ、単に置き換えればいいというものではなく、私たちは『本当に必要なプロセスに必要な洗浄が行われていたか』という抜本的な見直しから着手しています。すなわち、環境に配慮した洗浄プロセスを考えるのと同時に、そもそも無洗浄で済ませることが可能な製造プロセスについても検討していきました。そのように全方位で柔軟に検討した結果として、私たちはフロンレスの技術をいち早く確立し、独自のフロンレス装置を全世界で共有することができたのです」
この洗浄プロセス見直しのエピソードからも同社に受け継がれてきたカルチャーの真髄が感じられる。それは、「進化・変化が必要となった際の真摯にして柔軟で熱量の高い行動」に如実に現れている。
「1964年、大和工業創業の地に『誠実努力の記念碑』が建てられました。現在も創業記念館の傍らに建つ記念碑には、当時の諏訪精工舎(現セイコーエプソン)で会長職に就いていた服部正次(日本の時計王といわれた服部時計店創業者・服部金太郎の次男。服部時計店=現在のセイコーホールディングスで1946年から社長を務め、日本の時計産業の基礎を築いた重要人物)による『建碑のことば』が添えられています。
そこには、『諏訪湖畔に殷賑を極める時計工業は昭和17年5月この地に創業された大和工業に始まった。東洋のスイスへの夢は大和工業から諏訪精工舎への道程に見事に開花した。これは創業以来企業の成長一途に献身した山崎場長の誠実努力の賜物である。山崎場長の功績は社史を飾り其の誠実努力の人となりは永遠に人々に語り継がれるであろう』と刻まれています」
技術の種を有しているだけでは、事業は進化を果たし得ない。可能性を現実のものとするためには、想いの強さが必要だ。「誠実努力」の想いを強く受け継いだ企業文化の一助も得て、自然と共生するべく変革を志向したセイコーエプソンは見事な前進を果たしたのである。
1997年、そうした企業文化の健全なる発露の成果として、セイコーエプソンはアメリカの環境保護庁が定める「成層圏オゾン層保護賞(企業賞)」でベスト・オブ・ベストを受賞している。
「成層圏オゾン層保護賞は1990年以降、オゾン層の保護に資する率先的・革新的な取り組みに対して贈られてきた賞です。1992年以降、私たちは6年連続で企業賞あるいは個人賞を受賞してきました」
しかし、1997年までに評価を受けたことでは満足せず、セイコーエプソンは「誠実努力」の姿勢でさらに活動に拍車をかけていく。1988年の「環境元年」に続き、1998年を「第2の環境元年」と位置づけて「環境総合施策」を策定し、専門委員会を立ち上げて環境保全のために全方位での活動を開始している。

「カーボンマイナス」と「地下資源消費ゼロ」に向けて
現在のセイコーエプソンは、「環境総合施策」から10年後の2008年に策定され、2018年と2021年に改定されてきた「環境ビジョン2050」に取り組んでいるところだ。このビジョンの本丸は、2050年までにカーボンニュートラルを超えた「カーボンマイナス」、さらには「地下資源消費ゼロ」も達成することである。「『カーボンマイナス』を実現するための具体的施策として挙げられるのが『全世界の拠点※1における使用電力の100%再エネ化』であり、その電力調達を持続可能な方法として一歩進めたのが『バイオマス発電』です。そして、『地下資源消費ゼロ』を実現するための施策のひとつが『金属資源循環』になります」
セイコーエプソンは2021年3月に「再エネ化達成宣言」を発出し、2023年12月には実際に「グローバルの全拠点※1で使用電力を100%再生可能エネルギーに切り替えることに成功」している。これは、事業活動で使用する電気を再エネに移行する国際的な枠組み「RE100」に加盟する国内の製造業においてはじめて※2の達成になるという。
「私たちは2018年から脱炭素目標の達成を見据え、全世界の拠点※1で地域に根ざした再エネの利用を着実に拡大してきました。将来世代への先行投資と位置づけて短期的なコストアップを許容しながら、各地域の再エネ市場そのものの進展や活性化にも貢献していくという強い意志のもと、使用電力の100%再エネ化を推し進めてきたのです。
例えば、本社に加えて開発拠点が集中する長野県では豊富な水資源と高低差のある地形を利用した水力発電を活用しています。長野県や電力会社と連携して、CO2フリー電気の購入費用から、新規の電源開発へ継続的に投資される仕組み『信州 Green 電源拡大プロジェクト』を開始しています。世界的な課題の大きさを真摯に受け止め、早期の転換を目指して全社一丸となって自らができる活動をやり切る。それこそが、かつて段階的なフロン削減ではなく、『全廃』を強い意志で実行した経営者の想いを受け継ぎ、「創造と挑戦」の精神で高い目標に挑むセイコーエプソンのカルチャーだと思うのです」
そして、現在では「自社の環境目標を達成することはもちろん、社会全体が再エネ化を進めていくためには再エネの総量を増やすことが必要」という考えに基づき、セイコーエプソンが自前でバイオマス発電所を稼働させる計画も進行中だ。
「『セイコーエプソン株式会社南信州バイオマス発電所』という名称で、長野県飯田市にて2026年度中の稼働を目指しているところです。燃料には地元の未利用材やキノコ培地、社内から排出する木製パレットなどを使います。昨今ではバイオマス発電の取り組みが日本でも増えてきていますが、燃料を海外からも調達しているのが実情です。
エプソンは社有地に林や森も所有しており、そこでの間伐材も一部利用していきます。地産地消による、無理のない燃料調達を実現したいと考えているのです。発電した電力は市場へ販売しますが、災害など有事の際には地域施設への電力供給を行うことを想定しています。自ら再エネを創出し、外部からの調達量を抑えることで、地域への再エネ普及を図ることが目的です」
また、「地下資源消費ゼロ」を目指した取り組みのひとつである「金属資源循環」とは、どのようなものだろうか。
「これについては、おもにスマートフォンや自動車の電子部品などに使われる高機能金属粉末を製造しているエプソンアトミックス(セイコーエプソンのグループ企業)で取り組んでいます。セイコーエプソンの半導体やインクジェットヘッドの製造工程で不要になったシリコンウエハーを金属粉末の原料として活用し、資源の循環を実現しているところです。
また、エプソンアトミックスでは現在、不要になった金属を金属粉末の原料として資源化する新工場の建設に取り組んでおり、2025年6月の稼働を目指しています。稼働後の3年で同社が必要とする金属原料の約1/4を再生金属原料に置き換えて、地下資源(バージン原料)の消費抑制に貢献する見通しです。今、社会全体が目指しているサーキュラーエコノミーの実現を視野に入れて、私たちは私たちにできることに懸命に取り組んでいく所存です」
セイコーエプソンは、脱炭素、資源循環、環境技術開発に向けて2020〜2030年の10年間に1,000億円を投入するという。
今、明るい未来に向けて前進するために必要なこととは
「1942年の創業以来、セイコーエプソンは『省・小・精の技術』をベースに創造と挑戦を積み重ねてきました。今、物質的・経済的な豊かさだけでなく、精神的・文化的な豊かさも含めた『こころの豊かさ』が望まれています。これまでにセイコーエプソンが磨き続けてきた『省・小・精』とは、単に技術の特性を指した言葉ではありません。『無駄を省き、より小さく、より精緻に』という思想を表す言葉でもあるのです。これは、建築家のミース・ファン・デル・ローエが提唱した『Less is more(少ないほうが豊かである)』とも通底する考え方と言えるでしょう。今こそ、私たち人類にはモノをたくさん手に入れる・たくさんのモノがあるという『More is better』の考え方からの脱却地点をともに探し、共有するべきときが訪れているのではないでしょうか」
Less is more.
この20世紀のモダニズム建築を代表する巨匠の言葉を待たずして、私たち日本人は「禅」や「茶の湯」の精神をとおして簡素・簡潔であることの価値を学び、人間と自然の調和についても古くから実践してきた。一説によると、ミース・ファン・デル・ローエは日本庭園を見たときに「Less is more」を感得したとも言われている。人智を尽くして自然と共生しながら、こころ豊かに暮らし、人生の粋(すい)を堪能する。これこそが真のジャパニーズスタイルである。
「セイコーエプソンは持続可能な社会の実現に向けて、精神的・文化的な豊かさ、自然の豊かさといったさまざまな豊かさを高めながら、『省・小・精』から生み出す価値で、人と地球を豊かに彩ることを目指しています。
私たちは経営理念に常に立ち返り、社会課題の解決に貢献し続けます。『循環型経済の牽引』『産業構造の革新』『生活の質向上』『社会的責任の遂行』という4つのマテリアリティ(重要課題)を掲げ、その取り組みの実効性を高めるために12のサステナビリティ重要テーマを定めて、具体的なKPI(推進目標・指標)を設定したうえで推進しているところです。
そして、真の持続可能性が求められる時代だからこそ、未来のこころ豊かな社会の実現に向けて、志を同じくする社内外のパートナーとの共創により社会課題解決と事業成長を両立させるサステナビリティ経営を実践していきたいと考えています。明るい未来に向けて、共に前進していきましょう」
セイコーエプソン
※1 一部、販売拠点などの電力量が特定できない賃借物件は除く
※2 日本の「RE100」加盟企業の内。2024年1月9日時点(セイコーエプソン調べ)
おがわ・やすのり◎セイコーエプソン代表取締役社長。東北大学大学院工学研究科修士課程を終了後の1988年、セイコーエプソンに入社して研究開発本部に配属される。2008年にVI事業推進部長、2017年4月にビジュアルプロダクツ事業部長、同年6月に執行役員、2018年に技術開発本部長、2019年に取締役常務執行役員(ウエアラブル・産業プロダクツ事業セグメント担当)を経て、2020年4月から現職。