田中信哉からこの言葉を聞いた瞬間、驚きを隠せなかった。彼が執行役員を務める電通デジタルは、“この領域”の先駆的な存在だからだ。
しかしインタビューが進むにつれ、それまで曖昧性を伴っていたDXやCXの概念が徐々に輪郭を見せ、やがてそれぞれに体温を帯びていくのを感じた。
「確固たるカタチがないからこそ、それらしい話に左右されないことが大切です」
あらためて、DX、CXとは一体何なのか。2021年7月、電通アイソバーとの合併を果たし、約2000人の企業規模にまで成長した電通デジタル。飛躍を目指す、同社の在り方について迫りたい。
「王道を歩いている場合ではない」クリエーティブディレクターから、経営へ
本題に入る前にまず、田中信哉という男の足跡について触れておきたい。
2021年11月現在、CXのパイオニアとして業界を牽引する彼だが、もともとは電通のクリエーティブ局に在籍し、経験と実績に恵まれたクリエーターだった。
「クリエーティブの現場にいた18年の間に、コピーライター兼CMプランナー、クリエーティブディレクターと立場は変化しても、同一のクライアントを長期間にわたり担当するケースが多かったです。特に大手化粧品メーカーや国内高級自動車ブランドでは、広告にとどまらず企業ブランディングや商品戦略、事業戦略など幅広い領域のプランニングを任せていただきました」
信頼の獲得と引き換えに、求められる期待も次第に大きくなる。田中がそのことを実感したのは、某上場企業のCEOから大型の新規事業について提案を求められた時だった。
「結論から言うと、まったく歯が立たなかったんです。
ブランドや事業の世界観をゼロからつくることに自負はあったものの、経営者を唸らせるようなビジネスモデルを提案できたかというと話は別で。
自身の力不足に直面すると同時に『表現の力だけでなく、経営視点を身につけなければ将来、経営者の“漠然とした課題”に応えきれない』と危機感を覚えた瞬間でもありました」
2016年。田中は自ら志願し、経営企画局へと異動した。大手クライアントを複数抱えるクリエーティブディレクターとして王道を突き進んでいただけに、周囲からは驚きをもって迎えられた。
「経営企画局に配属されたばかりの頃は、周囲から謎の生物のように見えていたと思います」と笑う田中だが、クリエーティブの現場で20年近く過ごしてきた彼にとって、その覚悟は並大抵のものではなかったはずだ。ビジネススクールに2年間通い、経営の全体像をイチから学んだ姿勢にその覚悟が見て取れる。
CXのエヴァンジェリストとして、社内外に重要性を説く
時代が大きく変化する中で、経営の根幹づくりに尽力した田中は、2017年、電通アイソバーの取締役に就任する。同社は、世界51のマーケットで展開する電通クリエーティブエージェンシーをリードしているIsobarネットワークの一員として、“グローバルデジタルエージェンシー”を体現。クリエーティビティとテクノロジーを融合させた独自のサービスを展開してきた。
「私がジョインした当時の電通アイソバーは、いわば転換期。戦略よりもクリエーティブの筋力が強い──そんな印象を受けました。
戦略思考にシフトチェンジすべく、社として表号したのが企業のマーケティング課題全体を解決する『CX Design Firm.』です。私の使命は、顧客体験を軸足にしたクリエーティブ転換への舵取り。そう捉えて、在籍した4年間は力の限りを尽くしました」
あらためて、“CXデザイン”とは何か。
田中は、一切の不快感を与えずに顧客をエスコートするために、テクノロジーを駆使しながら“丁寧”に考え、実践することだと話す。
「CXデザインそのものをひとつの定義にまとめ、手順を指し示すことは困難です。商品やサービスによって、目指すべきゴールは違いますから。
しかし、人を中心に捉えたとき、CXデザインの要素は『モチベーション』と『フリクションレス』というシンプルな2つの矢印で説明できます」
例えば、プロジェクトのゴールを「顧客に商品を買ってもらう、あるいは好きになってもらう」と設定した場合。
モチベーションは顧客の心を動かし、ゴールに向かわせる力を示す矢印。一方、フリクションレスは障壁を最小限にし、ゴールに辿りつきやすくするための矢印。前者はクリエーティブやマーケティングが、後者はテクノロジーやデータが得意とする領域である。
CXを“曖昧で分かりにくいもの”としながらも、因数分解した上で、考え方やスキーム、実践の重要性を社内外に発信し続けた田中。
「クリエーティブが必要不可欠」だとされるCXの概念は、社員一人ひとりの立ち返る場所となり、やがて電通アイソバーのかけがえのない強みとなった。
規模、専門性、オリジナリティ......不可能を可能にさせる合併の威力
2021年7月。冒頭で紹介した通り、電通アイソバーは電通デジタルと合併。国内最大規模のデジタルマーケティング企業として新たなスタートを切った。
「かねてより電通デジタルは“市場創造型のDX”を推進してきました。単なる業務効率化とは違う、世の中に新しい価値を提供するためのマーケティング的な取り組みですね。そこにCXに強みを持つ電通アイソバーが融合したことで、唯一無二の“顧客起点DX”が生み出せると意気込んでいます」
田中が相乗効果として挙げるのは、こうしたオリジナリティだけでない。規模の拡大や専門領域の広がりも追い風になっていると話す。
「従業員数で言うと、電通アイソバー時代の300人から2,000人と6倍以上となり、実現できる施策の幅が格段に広がりました。これまでは、リソースや専門性の兼ね合いであきらめざるを得ないケースも僅かながらあったんです」
今回の合併により強化されたのは、CXソリューション、グローバルソリューション、コマースソリューション、LINEソリューションの4つ。2社の強みを活かしながら、補完し合える体制を構築した。
多種多様な人材が交わり、これまでにない価値をつくり出そうとしている中で、田中がとりわけ力を入れているのが、新たな企業カルチャーの創出だ。電通アイソバーではバリューを「As One, with Respect.~目の前のひとりを尊重して、その先のひとりを尊重する」と掲げ、全社の浸透に取り組んできた。
「私たちの事業はデジタル領域がメインではあるんですが、最終的には人の目に触れるものをつくっています。言うならば『デジタルの世界の中で、どれだけ人の心を揺さぶれるか』に挑んでいる。目の前にいる仲間、期待してくださるクライアント、その先にいるひとりの生活者。それぞれのことを想像しながら、互いをリスペクトできたら、もっともっと良い仕事ができると考えていて。
合併してからまだ5カ月足らずなので社内の制度や環境などのアップデートにも取り組んでいます。急激な拡大による成長痛もあります。そんな今だからこそ、継承していきたい価値観です」
「『対話できる人間』がDX、CXの分野においても強い」
およそ1時間のインタビューの中で、田中が何度も口にした言葉がある。それは「対話」だ。
「現場にいた頃、ブランドやマーケティングの戦略をつくりながら、ふと『これは戦略ではあるが、同時にクライアントの気持ちの整理なんだ』と気づいたんです。
会話によって、相手の気持ちと覚悟を整理して施策の優先順位を決める。それがプロジェクト全体のアウトラインとなり、さらにマーケティング要素を加えることで“戦略”に進化していく。ですから『対話ができる人間』が結局、DX、CXの分野においても強いと感じています。
対話に必要な要素が何か?田中に問うと「粘り強さや質問力、あとは......スマイル」
最後に、田中にCXの未来について尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「数年前アメリカ西海岸の様々なシェアリングサービスの話を聞いて、将来的には、CXからHX、つまりヒューマンエクスペリエンスになると考え始めました。
そのサービスが扱っているのは、乗り捨て自由のキックボード。充電する人にインセンティブが入る仕組みが特徴で、乗り捨てられたキックボードは誰かがチャージして街に放つ。事業者が介入してメンテナンスする必要は最小限です。ですから今後は『企業とユーザー』『雇用者と従業員』という概念すら薄まっていくのではないかと」
あらゆる境界線を溶かしてこそCXである──これは以前、田中がイベント登壇の際に放った一言だ。彼の言う通り、企業は今後カスタマーに限らず、コミュニティや非営利団体など、全方位的な人と向き合う必要性が出てくるに違いない。そして、その頃にはCXがなくてはならない空気のような存在になっている......そう、確信した瞬間だった。