5歳の少女は、一目惚れした。
TV番組でアフリカの少数民族、マサイ族が槍を片手に高く飛び跳ねているのをみて、心がときめいた。
「すべてがパーフェクト。私にとってのヒーローはアフリカ人でした」
ヨシダナギ、写真家。アフリカ人に憧れた少女は今、単身でアフリカやアマゾンへ赴き、世界中の少数民族を撮影している。
TV番組でアフリカの少数民族、マサイ族が槍を片手に高く飛び跳ねているのをみて、心がときめいた。
「すべてがパーフェクト。私にとってのヒーローはアフリカ人でした」
ヨシダナギ、写真家。アフリカ人に憧れた少女は今、単身でアフリカやアマゾンへ赴き、世界中の少数民族を撮影している。
彼女の写真はいちど見ると忘れられない。エチオピアのスリ族、サハラ砂漠のトゥアレグ族をはじめとした少数民族に構図やポージングを指定し、色味を強調するレタッチを大胆に施す。その稀少で美しい写真は高く評価され、2017年には「講談社出版文化賞 写真賞」を受賞した。
第一線で活躍するフォトグラファーの彼女だが、29歳まで人生に混迷していた。中学2年生で不登校になり、グラビアアイドル、イラストレーターを経て、ときには高級クラブのホステスに。「20代は現状から抜け出そうともがいていた」と語るヨシダ。長きに渡る「憧れ」を撮影するいまへ、どのように近づいたのだろうか。
第一線で活躍するフォトグラファーの彼女だが、29歳まで人生に混迷していた。中学2年生で不登校になり、グラビアアイドル、イラストレーターを経て、ときには高級クラブのホステスに。「20代は現状から抜け出そうともがいていた」と語るヨシダ。長きに渡る「憧れ」を撮影するいまへ、どのように近づいたのだろうか。
アフリカに憧れた少女は、グラビアアイドルへ
大人になったらアフリカ人になれる。本気でそう信じていた。10歳で母から真実を告げられたとき、「人生で初めての挫折だった」とヨシダは微笑む。だが依然として、アフリカへ淡い憧れを抱きつづけた。
一方で現実は、陰鬱としていた。小学生のとき、転校を機にいじめがはじまったのだ。中学2年生の1学期から、学校へ行くのをやめた。
その代わりにヨシダが始めたのは、グラビアアイドルだった。更新していたブログに顔写真を掲載したところ、芸能事務所からスカウトされたのだ。しかし、グラビアアイドルは向いていないとすぐに察する。明るく元気に、愛想よく振る舞うという“アイドルらしい振る舞い”が全くできなかったからだ。
「グラビアアイドルは辞めたくてしょうがなかったです。けど他のアルバイトは年齢的にできない。事務所や父に相談しても『辞めた後はどうするの?』という問いに答えられなかった」
20歳まで我慢して続けたが、磨り減った心は限界を迎える。グラビアアイドルから逃げるように始めたのが、イラストレーターだった。世話になっていた写真家から「絵が上手いんだからイラストレーターをやってみたら?」と助言されたことがきっかけだ。絵は小さい頃から好きだったため、悪くない選択だと思った。
しかし、イラストレーターとしても順風満帆ではなかった。ヨシダは“好きな絵を描くこと”に喜びを感じていた。けれど仕事となればそうはいかない。クライアントの要望に応じて、自分が興味のないものを描かなければいけないからだ。絵はいつしか嫌いになり、ヨシダはスランプに陥った。そんなとき、脳裏にちらついたのが子どもの頃から憧れていたアフリカだった。
「アフリカに行ってカルチャーショックを受ければ、スランプを脱するきっかけを掴めるかもしれないと思ったんです」
同時に、5歳から募らせていたアフリカへの片思いがはじけた瞬間でもあった。23歳のヨシダはアフリカに旅立った。
一方で現実は、陰鬱としていた。小学生のとき、転校を機にいじめがはじまったのだ。中学2年生の1学期から、学校へ行くのをやめた。
その代わりにヨシダが始めたのは、グラビアアイドルだった。更新していたブログに顔写真を掲載したところ、芸能事務所からスカウトされたのだ。しかし、グラビアアイドルは向いていないとすぐに察する。明るく元気に、愛想よく振る舞うという“アイドルらしい振る舞い”が全くできなかったからだ。
「グラビアアイドルは辞めたくてしょうがなかったです。けど他のアルバイトは年齢的にできない。事務所や父に相談しても『辞めた後はどうするの?』という問いに答えられなかった」
20歳まで我慢して続けたが、磨り減った心は限界を迎える。グラビアアイドルから逃げるように始めたのが、イラストレーターだった。世話になっていた写真家から「絵が上手いんだからイラストレーターをやってみたら?」と助言されたことがきっかけだ。絵は小さい頃から好きだったため、悪くない選択だと思った。
しかし、イラストレーターとしても順風満帆ではなかった。ヨシダは“好きな絵を描くこと”に喜びを感じていた。けれど仕事となればそうはいかない。クライアントの要望に応じて、自分が興味のないものを描かなければいけないからだ。絵はいつしか嫌いになり、ヨシダはスランプに陥った。そんなとき、脳裏にちらついたのが子どもの頃から憧れていたアフリカだった。
「アフリカに行ってカルチャーショックを受ければ、スランプを脱するきっかけを掴めるかもしれないと思ったんです」
同時に、5歳から募らせていたアフリカへの片思いがはじけた瞬間でもあった。23歳のヨシダはアフリカに旅立った。
アフリカの素敵な人を忘れたくないから、写真をはじめた
英語は喋れない上、治安は著しく悪い。人生初のアフリカは困難の連続だったが、アフリカへの想いは強くなった。
「アフリカ人全員がカッコよく見えたんです。少数民族だけでなく、ドライバーも町の住人もみんなカッコよかった。5歳の一目惚れの衝撃もずっとあるから、どんな嫌なことをされても許しちゃうんですよね」
アフリカに再び惚れたヨシダ。イラストレーターを続けながら、アフリカ渡航前の1ヶ月間は銀座の高級スナックホステスをし、渡航資金を貯めた。そして約4週間のアフリカの旅を年に3〜4回繰り返す。 写真を撮るようになったのもこの頃だった。
「私、記憶力があまりなくて。アフリカの素敵な人たちとの出会いを忘れてしまうのが、勿体ないと思ったんです。旅の記録としてはじめたのが写真でした」
こうしてフォトグラファーとしての人生が意図せず始まっていた。アフリカの少数民族の写真を撮り、気が向いたらブログに載せる。鬱屈としていた人生にも陽が差し込んできた。
「アフリカに行くと、生きている実感がすごく湧きました。アフリカでの生活はあまりに大変だから、普段感情の起伏がすくない私が泣き喚いたり、歯を食いしばったりする。でも嫌じゃなかった。すべてが新鮮に思えたんです」
29歳までそうして生活は続いた。気づけば20カ国は回った。しかし、我が道を歩き続けるヨシダにもある感情が芽生えはじめた。焦りだ。
「母や父から『このまま30代になるのは心配。一度くらい会社に務めたらどうか』と諭されていました。それでも気にせずアフリカに行っていたら、親戚からも『ナギちゃん、一度しっかり働いたら?』って連絡がくるようになって。自由気ままに生きていた私も『あれ、このままで本当に大丈夫かな?』と不安になりはじめたんです」
集団生活は苦手、嫌なことはできない性格。オフィスワークをしてもすぐ辞めるのはわかっている。でも現状から抜け出す方法はみつからない。そんなとき、ヨシダの道を照らしてくれたのは銀座のスナックに通っていた常連客の一言だった。「世の中不思議なことにね、いちばんお金をつかった趣味が仕事になるんだよ」。進むべき方向が、はっきりと見えた。
「これからも、アフリカにすべてを注ごうと思いました」
変わらなかった日常は少しずつ動き始める。ヨシダはあるとき、アフリカの少数民族の写真にレタッチを大胆に施す、現在につながるスタイルを試みた。その写真をSNSに掲載したところ大きく拡散されたのだ。
そして、SNSのバズをきっかけに転機が訪れた。人気TV番組『クレイジージャーニー』の出演依頼である。ヨシダは迷わず快諾した。
「アフリカ人全員がカッコよく見えたんです。少数民族だけでなく、ドライバーも町の住人もみんなカッコよかった。5歳の一目惚れの衝撃もずっとあるから、どんな嫌なことをされても許しちゃうんですよね」
アフリカに再び惚れたヨシダ。イラストレーターを続けながら、アフリカ渡航前の1ヶ月間は銀座の高級スナックホステスをし、渡航資金を貯めた。そして約4週間のアフリカの旅を年に3〜4回繰り返す。 写真を撮るようになったのもこの頃だった。
「私、記憶力があまりなくて。アフリカの素敵な人たちとの出会いを忘れてしまうのが、勿体ないと思ったんです。旅の記録としてはじめたのが写真でした」
こうしてフォトグラファーとしての人生が意図せず始まっていた。アフリカの少数民族の写真を撮り、気が向いたらブログに載せる。鬱屈としていた人生にも陽が差し込んできた。
「アフリカに行くと、生きている実感がすごく湧きました。アフリカでの生活はあまりに大変だから、普段感情の起伏がすくない私が泣き喚いたり、歯を食いしばったりする。でも嫌じゃなかった。すべてが新鮮に思えたんです」
29歳までそうして生活は続いた。気づけば20カ国は回った。しかし、我が道を歩き続けるヨシダにもある感情が芽生えはじめた。焦りだ。
「母や父から『このまま30代になるのは心配。一度くらい会社に務めたらどうか』と諭されていました。それでも気にせずアフリカに行っていたら、親戚からも『ナギちゃん、一度しっかり働いたら?』って連絡がくるようになって。自由気ままに生きていた私も『あれ、このままで本当に大丈夫かな?』と不安になりはじめたんです」
集団生活は苦手、嫌なことはできない性格。オフィスワークをしてもすぐ辞めるのはわかっている。でも現状から抜け出す方法はみつからない。そんなとき、ヨシダの道を照らしてくれたのは銀座のスナックに通っていた常連客の一言だった。「世の中不思議なことにね、いちばんお金をつかった趣味が仕事になるんだよ」。進むべき方向が、はっきりと見えた。
「これからも、アフリカにすべてを注ごうと思いました」
変わらなかった日常は少しずつ動き始める。ヨシダはあるとき、アフリカの少数民族の写真にレタッチを大胆に施す、現在につながるスタイルを試みた。その写真をSNSに掲載したところ大きく拡散されたのだ。
そして、SNSのバズをきっかけに転機が訪れた。人気TV番組『クレイジージャーニー』の出演依頼である。ヨシダは迷わず快諾した。
ある日、ドラァグクイーンにウインクされた
番組放映後、アフリカの少数民族と同じように服を脱いで心の距離を縮める姿、鮮やかでダイナミックな写真は大きな反響を呼んだ。しかしヨシダにとってもっとも意味を持ったのは、「フォトグラファー」として紹介されたことだった。
「写真は気まぐれな趣味の一つでした。TV、そしてアフリカ人によって、フォトグラファーという職業を与えられたんです」
今ではフォトグラファーとして第一線で活躍するヨシダ。2020年は、新しい一歩を踏み出した。ドラァグクイーンの作品集『DRAG QUEEN -No Light, No Queen-』の発表だ。ドラァグクイーンとは、サブカルチャーとしてのゲイ文化から生まれた異性装をする人(パフォーマー)のこと。ヨシダはなぜ、新境地へ踏み出したのか。
「アフリカの少数民族を撮影しつづけるには、写真家として、新たな被写体を撮影しなければいけないと思いました。でも私が本気で惚れ込めないと、被写体の魅力を引き出せないこともわかっていました。ずっとその対象を探していると、ある瞬間、『ドラァグクイーンを撮ろう』と思って。まるで彼らにウインクされたようでした」
「写真は気まぐれな趣味の一つでした。TV、そしてアフリカ人によって、フォトグラファーという職業を与えられたんです」
今ではフォトグラファーとして第一線で活躍するヨシダ。2020年は、新しい一歩を踏み出した。ドラァグクイーンの作品集『DRAG QUEEN -No Light, No Queen-』の発表だ。ドラァグクイーンとは、サブカルチャーとしてのゲイ文化から生まれた異性装をする人(パフォーマー)のこと。ヨシダはなぜ、新境地へ踏み出したのか。
「アフリカの少数民族を撮影しつづけるには、写真家として、新たな被写体を撮影しなければいけないと思いました。でも私が本気で惚れ込めないと、被写体の魅力を引き出せないこともわかっていました。ずっとその対象を探していると、ある瞬間、『ドラァグクイーンを撮ろう』と思って。まるで彼らにウインクされたようでした」
パリとニューヨークで18人のドラァグクイーンを撮影した。ヨシダは彼らと関わる中で、ひとつの気づきを得た。
「カテゴライズされることを嫌う彼らから、“ダイバーシティ”という言葉の本当の意味を教えてもらいました。違う価値観の相手を否定する必要も、無理に受け入れる必要もない。私は私、あなたはあなた。ただ、認めればいいんだと」
アフリカの少数民族とドラァグクイーンは全く異なる被写体に思えるが、ヨシダにとっては共通点がある。
「立ち姿が美しいんですよ。立っている姿には、生き様が現れます。少数民族は『自分らが一番かっこいい』という気高い誇りが、ドラアグクイーンはこれまでのさまざまな経験を経て、自らの魅力を知り尽くしている強さがあるんです」
「カテゴライズされることを嫌う彼らから、“ダイバーシティ”という言葉の本当の意味を教えてもらいました。違う価値観の相手を否定する必要も、無理に受け入れる必要もない。私は私、あなたはあなた。ただ、認めればいいんだと」
アフリカの少数民族とドラァグクイーンは全く異なる被写体に思えるが、ヨシダにとっては共通点がある。
「立ち姿が美しいんですよ。立っている姿には、生き様が現れます。少数民族は『自分らが一番かっこいい』という気高い誇りが、ドラアグクイーンはこれまでのさまざまな経験を経て、自らの魅力を知り尽くしている強さがあるんです」
「フォトグラファーはいつか辞めると思う」
5歳の頃からの夢を叶え、フォトグラファーとして名誉ある賞も貰った。アフリカの少数民族を撮影しつづけている彼女の展望を聞くと、意外な答えが返ってきた。
「フォトグラファーは、いつか辞めると思っています。アフリカの魅力を伝える手段として、無理なくやれて、一番向いていることがたまたま撮ることだった」
けれども、根底の想いは変わらない。彼女は優しく微笑みながらこう続けた。
「アフリカには恩義を感じているんです。フォトグラファーという職業を与えてくれた。ドラアグクイーンを撮影できたのも、アフリカ、少数民族のおかげ。いま私にできる恩返しは、写真を撮って、多くの人に魅力を伝えることだと思っています」
子どもの頃からの野望、大人になって気づいた夢。尊く、長期的な目標を達成するにはどうすれば? ヨシダナギの生き様にひとつの答えがあるように思える。それは、もっとも達成したい目的を把握し、もっとも得意なことを手段に選ぶこと。彼女にとって、アフリカが目的であり写真は手段だった。自分の到達したい場所がわかっているなら、自分にとっていちばん歩きやすい道を選べばいい。その道は好きでなくていいし、疲れたら他の道を選べばいい。もうすこし肩の荷を下ろして夢に向かっていいかもしれない。彼女をみているとそう思わされる。
「プロとAIがいる、おまかせ資産運用」のコンセプトを掲げた資産運用サービス・THEOは単なる投機目的の資産運用ではなく、人生100年時代といわれるいま、人生の伴走者として人々の長期的な目標達成をサポートする。
「フォトグラファーは、いつか辞めると思っています。アフリカの魅力を伝える手段として、無理なくやれて、一番向いていることがたまたま撮ることだった」
けれども、根底の想いは変わらない。彼女は優しく微笑みながらこう続けた。
「アフリカには恩義を感じているんです。フォトグラファーという職業を与えてくれた。ドラアグクイーンを撮影できたのも、アフリカ、少数民族のおかげ。いま私にできる恩返しは、写真を撮って、多くの人に魅力を伝えることだと思っています」
子どもの頃からの野望、大人になって気づいた夢。尊く、長期的な目標を達成するにはどうすれば? ヨシダナギの生き様にひとつの答えがあるように思える。それは、もっとも達成したい目的を把握し、もっとも得意なことを手段に選ぶこと。彼女にとって、アフリカが目的であり写真は手段だった。自分の到達したい場所がわかっているなら、自分にとっていちばん歩きやすい道を選べばいい。その道は好きでなくていいし、疲れたら他の道を選べばいい。もうすこし肩の荷を下ろして夢に向かっていいかもしれない。彼女をみているとそう思わされる。
「プロとAIがいる、おまかせ資産運用」のコンセプトを掲げた資産運用サービス・THEOは単なる投機目的の資産運用ではなく、人生100年時代といわれるいま、人生の伴走者として人々の長期的な目標達成をサポートする。
Promoted by THEO / text by Issei Tanaka / photographs by Kei Ito
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