「今日はよろしくお願いします」 そう伝え、筆者がインタビューを始めようとすると、彼は「メモをとっていいですか」とおもむろに携帯電話をポケットから用意した。ガラケーだった。取材のために用意したメモを見返すのかと思い感謝を伝えると、彼は「いや、これ妻から頼まれたことをメモってるんです」と言い、場を和ませる。

俳優・佐藤二朗。目を細めながらガラケーのボタンを打つその姿は、良い意味でメディアを通じて感じていた印象と全く変わらない。人気ドラマや映画に多数出演する一方、演劇ユニット『ちからわざ』を主宰し、映画監督・脚本家としても活動。

今年はその劇団『ちからわざ』で2009 年に初演、 14 年に再演された舞台「はるヲうるひと」が映画化。佐藤が原作・脚本・監督を手掛け、第35回ワルシャワ映画祭に正式出品されるなど、役者の枠に収まらない活躍をしている。

穏やかに話しはじめる佐藤は「暗黒の20代だった。二度と戻りたくない」と過去を振り返る。揺るぎない人気を築くまでには、矛盾した想いと泥臭い積み重ねの日々があった。

絶対に戻りたくない、暗黒の20代

佐藤が俳優を志した原体験は、小学校4年生のときの学習発表会。“芋たちを引率する猫の先生”の役を担った佐藤の台詞が、台本の8割を占める劇だった。「見ていた父兄たちは、どうかしちゃったくらい笑っていたんですよね」と佐藤は照れくさそうに語る。その瞬間、自分は役者になる運命なのだと確信したという。

ホント馬鹿みたいなんだけど、と佐藤は続ける。「『役者になりたい』ってレベルじゃなくて『俺は役者になるために生まれてきた』と本気で思った。根拠は何もなかったんだけどね」。

しかし佐藤は、その自信と同じ大きさの不安も抱いていた。

「『あの大都市・東京で役者として飯が食えるわけない』とも、頑なに思っていたんです」

田んぼに囲まれた愛知県の田舎町で、相反する思いを抱えながら過ごした佐藤。高校卒業後、大学に進学するも役者の夢に繋がる活動は行わず、アルバイトに明け暮れる日々を過ごした。

大学4年生、就職活動の時期を迎えると、佐藤は二つの選択肢を迫られる。「役者になったら日本中を喜ばせられる」と信じて役者活動とアルバイトを並行するのか、はたまた「売れるわけがない」から一般企業に就職するのか。悩んだ末に佐藤が選んだのは後者だった。

大学卒業後にはどこかの企業に入社することが当たり前だった時代。ある程度勉強もできた。「因数分解もお手上げ、という状態なら潔く就職しなかったかもしれないけど。色々考えて、そのときは“失敗しない道”を選んだんです」

佐藤はリクルートに内定。研修では、創業者・江副浩正が編み出したビジネス理論を興味深く聞いた。配属は求人情報誌の営業に決定し、同社で働く意思を強く持った。しかし入社したその日、佐藤は辞表を提出した。

「僕は、精神年齢が8歳の50歳児なんですよ」と、佐藤は真剣な顔で話す。「日本武道館で入社式をして、上司や同期に挨拶していたとき、『俺、本当に役者を諦めるのか……』という想いがじわじわこみ上げてきた。ついにその気持ちを抑えきれなくなって、『会社辞めなきゃ!』と思い、上司に『辞めます』と伝えました」。

社員寮に運び込んだばかりの荷物もそのままに、その日の深夜の鈍行に飛び乗った。実家に帰ると、父親に泣かれた。「あの顔は未だに覚えている」と佐藤は訥々と振り返る。

辞職して1年間はアルバイトでお金を貯め、その後、劇団『文学座』付属演劇研究所に入団。文学座では、本科で認められた役者は研修科に上がり、さらに優秀な役者は準座員、さらにほんの一握りが座員になれる仕組みになっている。夢を諦めきれずに役者の世界へ挑戦した佐藤だったが、1年経っても研修科にさえ上がれなかった。別の研究所にも入団するが、やはりだめだった。

「2年やってみて、『やっぱり役者になれるわけなかった』と結論づけました」

ここで2度目の諦めをした佐藤は、もう一度安定を求めて求人広告の会社に営業で入社。「役者はもう諦めよう」と決心した末の決断だった。そこでは必死に働き、会社では営業成績トップだった。しかし、そんな日々を過ごすなかでじわじわと膨らんできた想いがあった。

やっぱり、俺は芝居をやりたい──。

二度目の就職をしてなりふり構わず一生懸命働いたのは、「役者になりたい」という想いの火種を消すためだったのだ。「結局、消火活動には失敗した」と佐藤。

「ワンシーン、名も無き役」からの逆転

そうして、佐藤は文学座時代の仲間を5人誘い、劇団『ちからわざ』を旗揚げする。

「当時の目標は、役者としての自分の存在を世の中に認めてもらうことでした。誰か俺を見つけてくれ!こんなおもしろい役者がいるぞ!って」

そうして、会社を退勤すると、背広姿で稽古場に向かう日々を過ごした。迎えた初舞台は、出演者が6人に対して、観客が7人。「後にも先にもあんなに緊張したときはないですよ。内臓が口から飛び出るとはこういうことかと」と振り返る。

その後、演出家・鈴木裕美と出会い、劇団『自転車キンクリート』の仲間入りをする。同時に、「これ以上迷惑をかけられない」と会社を辞職した。28歳のときである。佐藤は、再びアルバイトと役者活動を並行するようになった

「当時からいまの妻と同棲していたんだけど、よく許してくれていたと思います。20代は本当に行ったり来たりでしたから」

転機は突然訪れた。31歳のときだ。演出家・堤幸彦の目に留まった佐藤は、「ブラック・ジャックII」に登場する無名の医者役に抜擢される。ワンシーンのみ、医者Aという小さな役だったが、佐藤は考えた。自分に求められている役割はなにか。どう振る舞えば監督の期待に答えられるのか──。結果的に、「ブラック・ジャックII」への出演以降、ドラマや映画への出演回数は徐々に増えていった。

「しっかり爪痕を残したんですね」と筆者が言うと、「その言葉はあまり好きじゃなくて」と佐藤。「自分本位のように感じるからです。目指すべきなのは自分が目立つことではなくて、作品のクオリティを上げること。ハリウッド映画の凄いところは、エキストラの芝居なんです。たとえば舞台スピーチのシーンで観衆の笑いにリアリティがあると、一気に作品へ入り込むことができる。だから、名もない『コンビニ店員A』の役をしたときには『いらっしゃいませ!』ではなく『っしゃいあせ〜』って力が抜けた感じで言うとか、現実世界にも存在しうるリアルさは常に意識していました」

妥協はしない、もっと追求したい

そうして、徐々に人気俳優の地位を不動にした佐藤。今後の目標についてこう答える。

「僕を信頼してくれる監督、スタッフの期待に応えたい。そして『これくらいの表現ならいいでしょ』と妥協しない。もっと先、もっと先を求めて、お客さんを驚かせ続けたいです」

自分に気づいてほしい、認めてほしい──。劇団を立ち上げた当初に掲げていたその目標は、活動の幅が広がっていくにつれ徐々に変化していった。

「30代のときは肌感覚でやっていたのだけど、40代前半くらいのときかな、まだ若かった自分に(鈴木)裕美さんが言ってくれていたことが腑に落ちたんです。いい芝居は、スタッフやキャストとセッションすることだ、と。相手役の芝居、セットの机にある灰皿、着ている衣装、演出…… それらを受けて演じる方が、作品は素晴らしくなるんです」

会社を二度辞め、俳優を二度諦めた佐藤が、迷いながらも前に進めたのは「俺を見つけてくれ!」という切実かつ強烈な想いと目標があったからだろう。だからこそ、小さくも確かな一歩を積み重ねてこられた。

もしも佐藤が人生を変えるチャンスで「自分の爪痕を残す」ことだけを考えていたら、彼の姿を頻繁に見ることはなかったかもしれない。小さな利己から出発した歩みが、周囲の幸せも願う大きな目標に変わるとき、人生は彩りだすのではないか。佐藤の道程をみて、そう感じた。
人生100年時代といわれるいま、自分自身の力だけで自己実現を果たすことは難しい。佐藤にとっての鈴木裕美氏のような、支えとなる存在が必要だ。資産運用サービス・THEOは「プロとAIがいる、おまかせ資産運用」のコンセプトを掲げ、単なる投機目的の資産運用ではなく、人生の伴走者として人々の長期的な目標から逆算した行動設計をサポートしている。

さとう・じろう◎俳優・脚本家。 1969年5月7日生まれ、愛知県出身。96年、演劇ユニット「ちからわざ」を旗揚げ。以降、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』、映画『幼獣マメシバ』など話題の映画、ドラマで幅広い役をこなす個性派俳優。今年、自身が原作・脚本・監督を手掛けた舞台「はるヲうるひと」の映画化が決定している。

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