メンターシップは、大学院生やキャリア初期の研究者の人生に大きな違いをもたらす。優れたメンターは、研究者としての能力を高め、複雑なアカデミアの世界を導き、さもなければ見過ごしてしまうような機会に気づかせてくれる。しかし、最も価値あるメンターはそれ以上の役割を果たす。特に、自分が高等教育の世界にふさわしい人間なのか確信が持てずにいる学生が、自分自身を信じられるよう支援するのだ。家族の中で初めて大学に進学した学生や、労働者階級出身の学生、家族に学術界の経験者がほとんどいない学生にとって、こうした支援はとりわけ重要となる。残念ながら、大学側は効果的なメンターシップがどれほどの時間、配慮、そして献身を必要とするかを常に認識しているわけではない。
著書『The Heart of Mentorship: Building Empowering Relationships in the Academy』の中で、ピエレット・ホンダニュ=ソテロ、エミール・エストラーダ、ヴェロニカ・モンテス、ファティマ・スアレスの4人は、教員と指導を受ける学生との関係についての新たな捉え方を提示している。研究者およびメンティ(指導を受ける側)としての実体験に基づき、彼女たちは、学生を学術機関の枠を超えた家族、責任、志、知性を併せ持つ「ひとりの人間」として尊重するアプローチを提唱する。著者のうち3人には特に深い繋がりがある。ホンダニュ=ソテロは、エストラーダ、モンテス、スアレスのメンターを務めていたのだ。彼女たちの関係は、メンターシップがいかに個人のキャリアを形作り、次の世代を支える研究者のあり方に影響を与えるかを示している。
エストラーダにとって、メンターシップは自身のバックグラウンドの価値に対する認識を根本から変えるものだった。南カリフォルニア大学(USC)で博士課程を開始した際、彼女は個人的な経験がラテン系ファミリーに関する客観的な研究を妨げるのではないかと懸念していた。彼女はホンダニュ=ソテロに対し、不法滞在の親とともに働く子どもたちを研究対象にすべきかどうか相談したことを振り返る。メンターの返答は「あなたこそが、まさにその研究をすべき人間だ」というものだった。エストラーダはこう説明する。「私が自分のバックグラウンドをアカデミアでの研究の障害と捉えていたとき、彼女はそれを資産であり、修得するのに何年もかかる重要なスキルであると見抜いてくれた」。彼女のバイリンガリズム、バイカルチュラルな経験、そして幼少期に親とともに働いた経験は、研究において貴重な視点となった。
エストラーダはこうした励ましを「信じるための働きかけ(belief work)」と表現している。これは同書全体を通じた重要な概念だ。彼女は筆者にこう語った。「研究者としての訓練を受けていた時期、自分自身や能力に自信が持てなかった私は、必要な自信をピエレットから借りていた」。メンターの役割は、学生が課題を完了したり論文を発表したりするのを手伝うことにとどまらない。学生が自身の知的能力に自信を持てるよう導くことでもある。メンターは時に、研究者自身が気づく前にその潜在能力を見抜くことがあるのだ。
モンテスもUSCでの博士研究員(ポスドク)時代に同様の経験をした。労働者階級出身の移民女性であり、家族で初めて大学を卒業し、英語を第二言語とする彼女は、自分が学術界にふさわしい人間なのか自問することがあった。そんな中、ホンダニュ=ソテロは彼女を質的研究ワークショップの設計と教授の共同作業者に招き、部下としてではなく同僚として扱った。モンテスは筆者にこう語った。「とても緊張していましたが、私よりはるかに経験豊かな彼女が対等な存在として接してくれたことが、大きな自信になりました」。この経験を通じて、彼女は自分もアカデミアに正当な居場所を持つ人間だと捉え直すことができた。
もちろん、メンターシップとは単に励ますことだけではない。優れた研究者として成功するために必要な知的な自立心を養う支援も含まれる。スアレスは、高等研究研究所(School for Advanced Research)で博士論文の研究発表を行った際、異分野の先輩研究者たちからの質問に圧倒されたことを覚えている。ホンダニュ=ソテロは、研究をより強固にするフィードバックと、意図しない方向に研究を誘導しかねない提案とを見極める手助けをした。スアレスは筆者にこう語る。「ピエレットは、学術的なフィードバックに応えるということは、すべての指摘を受け入れてプロジェクトの方向性を変えることではないと教えてくれた。大切なのは注意深く耳を傾け、研究をより発展させられる要素を見極め、その研究で何が語れて何が語れないのかという明確な軸を持ち続けることなのだ」。
著者たちはまた、意味のあるメンターシップを行うには、アカデミアの外にある学生の私生活にも目を配る必要があると明言している。例えばエストラーダは、労働者階級の移民の娘として、また母親としての責任を抱えていた。彼女が必要としていたのは、そうした責務を学術活動の邪魔とみなすのではなく、理解してくれるメンターだった。現在、彼女はその理解を自身の指導学生たち(移民手続きの課題や家族の責任に直面している学生を含む)に向けて実践している。彼女はこう語る。「学生の学術的な成果だけを評価し、彼らが背負っている背景すべてを無視していては、本当の意味で学生を支援することはできない」。
重要なのは、著者が「思いやりのある関係性が教員と学生の間の著しい力関係の不均衡を消し去る」と主張しているわけではない点だ。スアレスも「関係性を重視したメンターシップであっても、教員と学生の力関係の格差がなくなるわけではない」と認めている。しかしメンターは、そうした格差を認識した上で機会を分かち合い、特定の一人に依存するのではなく複数の教員と関係を築くよう学生を後押しすることができる。エストラーダもまた学生同士の助け合いを推奨しており、こう語っている。「受けた支援は相手に返すのではなく、次の世代へと送り届けるものだ」。
ホンダニュ=ソテロは、支援的なメンターシップには誠実で時には耳の痛いフィードバックも含まれなければならないと強調する。教員には、何度も原稿を校正し追加の時間を費やすことになろうとも、学生の研究や論文執筆能力を向上させる手助けをする義務がある。彼女は、この責任から逃れることは「善意の嘘や悪気のない放置を決め込み、仕事上の義務を怠って最終的にメンティに悪影響を及ぼす不誠実なメンター」を生み出すことになると警告する。
しかし、このようなメンターシップに必要な時間が適切に評価されることは滅多にない。ホンダニュ=ソテロは、大学側が教員に対する要求を強める一方で、若手研究者を育成することの重要性を正しく認識していないと主張する。彼女は筆者にこう語った。「大学は、メンターシップが価値あるものとされ、それに伴う時間、努力、スキルが認められ、報われる文化を築く必要がある」。
結局のところ、『The Heart of Mentorship』は重要な事実を再認識させてくれる。教員個人の善意に依存する選択的活動としてメンターシップを扱いながら、大学が「学生の成功を重視している」と主張することはできない。強固なメンターシップには、組織的な支援、知的な誠実さ、相互の尊重、そして学生が学術的な業績以上のものをアカデミアにもたらしているという理解が不可欠だ。ホンダニュ=ソテロが語るように、「将来、次の世代を刺激し、自らの経験や問題意識に根ざした革新的な研究を生み出す多様な教員陣を望むのであれば、私たちは深く関与するメンターシップを支援しなければならない」。



