仕事の同僚、友人、家族は、私が執筆、調査、解決、あるいは完成させたものを見て、決まってこう言い放つ。
「それ、AIでやっただけでしょ」
これは特定の同僚や友人、家族一人に対する不満ではない。あいにく、あまりにも多くの人に言われてきたため、特定の誰か一人を責めるわけにはいかないのだ。
だから、あなた個人のことを書いているわけではない。いや、もしかしたらそうかもしれない。この記事は400文字以上あるので、どうせ最後まで読み進められるのはごく一部の人だけだろうから。
大半の人は冗談で言っている。クリスマスカードのリストから外されたり、見積り上の調整項目として扱われたりする人がいるわけではない。しかし、その冗談の裏には「プロセスのどこかでAIが関与した以上、その仕事、つまり私の仕事の価値は下がる」という前提が存在する。
私のいつもの返答はこうだ。「そうだね。リサーチの補助に使っているよ。おかげで読むのがものすごく早くなった」
すると、会話の相手は決まって静まり返る。
「エクセルを使っただけ」とは誰も言わない
財務モデルを見て「エクセルで作っただけでしょ」と吐き捨てる人はいない。電卓を使っている人を見て、その計算が「本物」かどうか、あるいはボタンを押したことが手抜きになるのかと問いつめる人もいない。
(小学6年生は除く。計算機は使わないでほしい)
完成した家を見て、しっかり建っているのを確認した後に「ネイルガン(釘打ち機)を使ったから」と大工を批判する人もいない。何千本もの釘を1本ずつ金づちで手作業で打たなかったからといって、その家の品質を疑う人などいないはずだ。
「えっ、骨組みを切るのに手鋸を使わなかったの?」――ツールもテクノロジーも進化するものなのだ。
批判のメッセージを書き始める前に、私がAIの違いを理解していることを知っておいてほしい。AIは単なる「もう一つの電卓」ではない。電子メールやGoogleが登場したときとも違う。それらとは全く次元の異なる、強大なレバレッジをもたらす存在だ。
AIは、私が朝食でエナジードリンクを飲み干す前に、200ページにおよぶ資料を読みこなすことができる。文書の比較、情報の整理、モデルの構築、コードの記述、論理への反論、そして終身教授のような自信に満ちた態度で驚くほど説得力のある長文を作成することすら可能だ。
だからこそ、AIはより強力であり、より危険でもある。
だが、より強力なツールに対する答えは、人間(私やあなたの頭脳)のより優れた判断力である。
「仕事がどれほど大変だったか」を周りにアピールして満足させるために、あえて作業速度を落とすことが正解ではない。そうしようと思えば私にもできる。進捗をわざと遅らせ、関係者を納得させるために1年分の会議、委員会、プレゼン、報告会を設定することだって可能だ。
しかし、それは私のスタイルではない。私たちはそうやって成長してきたわけではないし、これから目指す場所でもない。
ビジネスの世界は、新しい技術の導入に抵抗したり変化を受け入れなかったりすることに対してボーナスポイントをくれたりはしない。答えを見つけるのに時間がかかったからといって、顧客が余計にお金を払ってくれるわけでもない。確かにタイム&エクスペンス(実費・時間給算定方式)の請求ならそうかもしれないが、私の会社では、そうした古いビジネスの遺物を「コンサルティングの歴史」と題したスミソニアン博物館の展示に出すために、すでに集め始めている。
AI活用におけるより適切な基準
基準は極めてシンプルであるべきだ。
それは正確か?役に立つか?現実の問題を解決したか?ビジネスにおいて、課題解決のために金銭を支払ってくれる顧客に価値を提供できたか?そして何より、生身の人間がその結果に対して責任を持つ意思があるか?
AIが誤った回答を提示し、それをそのまま使ったとしたら、それは私の責任だ。
AIのおかげで200ページを素早く読み込み、本質的な課題を発見し、自身の思考に疑問を投げかけ、より優れた意思決定に迅速に到達できたのであれば、その成果も私の責任である。
成果の責任を負うのはツールではない。私であり、あなただ。ChatGPTの回答をただコピペし、確認もせずに、間違いが発覚したときに機械のせいにする愚者であっても、責任を負うのはその人間なのだ。
AIの活用は責任を免除するものではなく、むしろ集中させる。ツールがもたらすレバレッジが大きくなるほど、使う側に求められる判断力も増していく。
AIが提示したものを思考停止でコピペするのは怠慢だ。検証していない事実を公表するのは無責任である。持ち合わせていない専門知識があるかのように偽るためにAIを使うのは、リーダーシップではない。
しかし、これらはどれもAIそのものを非難すべき理由にはならない。
非難されるべきは、自分の頭で考えリーダーシップを発揮するために報酬を得ているプロフェッショナルたちの「不適切な判断力」なのだ。
どれほど苦労したかを周囲に賞賛されたいがあまりにAIの使用を拒むのも、大同小異だ。クライアントは「苦労」に対して対価を支払うのではない。「成果」に対して対価を支払うのだ。
大工は依然として採寸、切断、建築の方法を知っていなければならない。電卓を持つ人間は、解くべき方程式を知っていなければならない。残すものと捨てるもの、何が真実で何が重要か、そしてどのような成果を生み出すかを決定するのは、どこまでいっても人間なのだ。
プロセスにAIが関与しても、記事の責任は私が負う
曖昧な言葉遣いこそがこのような議論を生む原因でもあるため、正確に伝えておきたい。
私は思考を完全に放り出し、出版可能な意見が自動的に生成されるのを待っていたわけではない。
この記事は、私自身の経験、挫折、失敗、意見、冗談、そして公開前に削除されたいくつかの言葉から生まれている。
AIは制作プロセスにおけるツールのひとつに過ぎない。リサーチの高速化、論理の検証、構成の推敲、重複表現の指摘などに利用した。同時に、Google、スペルチェック、過去のメモ、プリンター、水性ペン、メモカード、そして自分自身の頭の中にある刻一刻とあやしくなるファイルシステムも活用した。
AIが私の信条を決めるわけではない。AIには経験もなく、意見を形成することも、この記事を自ら執筆することもない。
AIが単独で企業を成功に導くこともない。それはどこまでいってもツールだ。買収を決断することも、会議を仕切ったり参加したりすることも、個人を成長させる失敗をすることもなく、次に起こることへの責任という重圧を感じることもない。
AIは本記事の内容に恥じることもなければ、間違っていたときに説明責任を果たすこともない。成功であれ失敗であれ、成果に己の名を刻むことはできないのだ。
それができるのは、私である。
それこそが、ツールを使うことと、主体性をツールに明け渡すことの違いだ。
だから次、誰かに「それ、AIを使っただけでしょ」と言われたら、私はこう答えるだろう。
「ああ。回答を得たり、仕事を早く終わらせたりするのに役立っているよ。電卓やネイルガンと同じさ。こうしよう、今度君が長文のメッセージを送りつけてきたら、手書きの便せんに署名・封かん・切手を貼ってポストに投函して返信してあげるよ。時代遅れの君なら、それでようやく『本物で誠実』だと感じられるだろうからね」
そう言って、あとはまた静まり返るのに任せることにする。
AIはスピードを上げてくれる。思考を深める助けになることもある。時には、愚か者を素早く見つける手助けをしてくれることもある。
だが、成果の責任をAIが負うことはできない。責任を負うのは私だ。
起業家とは、物事を始め、そして完遂する者なのだ。



