社会テーマが「日本のチャンス」になる理由
こうした実践知の例は、日本企業にもある。神奈川県川崎市のチョークメーカー、日本理化学工業は、その好例だ。同社は1960年、知的障がい者ふたりを実習生として受け入れた。以来雇用を続け、今では知的障がい者が従業員の約7割を占めるまでになった。ノギス(※1)のような複雑な測定機器の代わりに、シンプルな検査棒で検品する。時計が読めなくても、砂時計で時間を示す。道具を使う人に合わせて変えたことで、それまで働くことが難しかった人の力を解放した。
日本企業の経営哲学のひとつに、近江商人の経営理念を表すとされる「売り手よし、買い手よし、世間よし」という言葉がある。ステークホルダー資本主義でいう「地域社会」は、ともすればその範囲が企業の立地する地域の人々で閉じがちな概念だが、「三方よし」の「世間」は、もっと広い意味をもつ。社会全体への貢献まで視野に入れて経営する、という考え方だ。日本理化学工業は、この哲学を体現している企業と言えるだろう。測りにくい社会テーマに向き合うための土台が、日本企業にはすでにある。
さらに日本は今、少子高齢化が進み、人口減少で主要先進国の先頭を走っている。SDGsが策定された当時、世界の人口課題の中心は人口爆発であり、少子高齢化や人口減少は注目されにくかった。しかし、ポストSDGsが見据える2045年や2050年といった時間軸では、これらの課題が数十カ国単位で浮上してくる。
高齢化や人口減少が進めば、孤立する人が増え、地域のつながりも細る。Beyond GDPが重視する、社会的結束や社会関係資本の問題だ。その意味で、日本はポストSDGsにおいては課題先進国なのであり、先ほどの事例以外にも、数多の現場の実践知が眠っていることは間違いない。
※1 ノギス:0.1mm単位でサイズを測定できる精密計測工具
日本の「実践知」を世界に向けて「翻訳」せよ
だが、課題先進国というだけでは足りない。先進的な取り組みがあっても、それが国際的なルールや標準に反映された例はほとんどない。世界で「Sushi」や「Sake」は知られていても、「Sanpo-yoshi」や「Seken-yoshi」はほとんど知られていない。
測りにくい社会テーマでの貴重な実践知は、わかりやすく言語化し、他社も使えるように標準化し、それをルールにしていくことで初めて評価される。欧米企業に比べ、日本企業はこうした「翻訳」に取り組むことが少なかった。
ただ、SDGsが日本中に広まったことで、日本企業の側にも変化が生じている。企業・組織が自然との関わりを評価し、リスクや機会を情報開示する国際的な枠組み「TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)」について、2024年1月時点で早期導入を表明した企業・組織が日本では80と、世界で最多だった。2026年10月時点でも、一般企業(事業会社、金融機関)では747件のうち248件、全体の約3分の1を日本が占めている。
今後、日本企業に期待したいのは、「ルールを早く把握する」側から「先んじてルールをつくる」側へと立ち位置を変えることだ。TNFDの社会版にあたる開示枠組み「TISFD(不平等・社会関連財務開示タスクフォース)」は、2027年後半に最終提言の公表を予定しており、ポストSDGsの国家間交渉と同じ年に、企業による開示のルールも固まる。筆者は2026年2月にジュネーブで、TISFDの事務局と対話した。


