DXで代替できる部分と、できない部分
先の実業家氏の主張を、私なりに整理してみます。彼が繰り返し述べているのは、鮨職人の世界で言われる「飯炊き3年、握り8年」といった旧来の徒弟制度の中には、技術の伝承という本質とは無関係な、単なる労働力の搾取や業界の参入障壁を維持するための慣習が少なからず紛れ込んでいる、という指摘です。彼の主張を要約すれば、かつての徒弟制度とは、特別に優秀でも器用でもない人たちを長い年月をかけて一人前に育てるための仕組みであり、そうした人たちにはある程度の年月が必要だったかもしれないが、優れたセンスと頭の良さを持つ人間まで、一律に同じだけの年月を費やさせるのはあまりに非効率だ、という趣旨の発言をしています。実際、魚の目利きや仕込みの技術、シャリの炊き方といった知識の多くは、今や専門書や短期集中型の鮨学校を通じて効率的に学べる環境が整いつつあります。情報が民主化され、分業や自動化が進んだ現代社会において、画一的に「とにかく10年」と年数だけを基準にするのは、確かに時代錯誤な側面があるというのは一理ある指摘だと思います。
しかし、ここで立ち止まって考えたいのは、「調理技術」という一つの軸だけで、飲食業という仕事の全体を語り切れるのか、という点です。
長い修業期間が担っている役割は、実のところ、調理の手技を体に覚えさせることだけではありません。来る日も来る日もカウンターの隅から客を観察し続けることで、人は何に満たされ何に居心地の悪さを覚えるのかを、理屈ではなく肌感覚として蓄積していく時間でもあります。あるいは休みの日に自分の足で他の店を食べ歩き、良いところも悪いところも自分の体験として確かめながら知見を広げていく期間でもあるでしょう。さらには日々の仕入れを通じて築かれる市場や生産者との信頼関係、同業の職人たちとの横の繋がりといった一朝一夕には手に入らない人脈も、その年月の中でゆっくりと育まれていきます。こうした蓄積は、独立してから客前に立つその日まで、決して目には見えない形で効いてくるものです。
カウンターに立つということは、単に美味しいものを切る、焼く、煮る、握る、という作業だけでは完結しません。初めて訪れる緊張した客の肩の力をほぐす間合い。隣席同士の空気がぎこちなくなった時にさりげなく流れを変える機転。クレームや予期せぬトラブルが起きた際の瞬時の判断と対応。常連として甘えてくる客との適切な距離の取り方。時には、マナーを知らない客をさりげなく教育していく繊細な接客姿勢。こうした能力は、知識として本を読んで理解できるものではありません。水泳の教本を何冊読み込んだところで泳げるようにはならないのと同じです。これらは、場数を踏み、時に手痛い失敗を重ねることでしか身につかない、極めて実践的な技能です。
つまり、この実業家氏の主張は「DXやナレッジの共有によって省略可能になった部分がある」という、極めて限定的な話として受け止めるのが正確でしょう。調理技術の習得という一点においては、確かに効率化の余地は大いにあります。しかし飲食業という仕事全体を支えているのは、調理の腕前だけではないのです。
仮に、こうした接客面での機微が自分には不足していると自覚しているのであれば、それが問われにくい環境で勝負するという選択肢もあります。例えば対面での会話や間合いよりも、効率的な提供スピードや商品そのものの完成度が重視されるテイクアウト専門店や、EC・通販に軸足を置いた業態であれば、接客の巧拙が占める比重はぐっと小さくなります。あるいは視点を海外に広げてみるのもいいでしょう。接客や調理技術がさほど卓越していなくとも、海外に飛び出す胆力さえあれば、「スシ・マスター・フロム・ジャパン」という肩書きだけで雇ってくれる場は、世界中に数多く存在します。技術の精度や接客の洗練度以上に「日本人である」という事実そのものが強力な付加価値として機能する市場が今なお数多く残っているのです。自分の得意な一点を活かせる土俵を国内外問わず広い視野で探してみるというのも、立派な戦略のひとつでしょう。
極論すれば、カウンター越しに客の呼吸を読み、場の空気まで含めた総合的な体験価値を売る店を目指すなら、10年をかけて培う身体知や信頼関係には替えがたい価値があります。その一方で、研ぎ澄まされた味やスピード、特化した商品力の一点突破で勝負するなら、技術を最短で獲得して早期に独立することは極めて合理的であり、10年の下積みは不要どころか機会損失にすらなり得ます。
つまり、「10年の修業は必要か否か」という問い自体が、前提を欠いた不毛な議論だと私は考えています。真の問いは、「自分はどんな価値を顧客に提供し、どの土俵で勝負するのか」という看板の選び方にこそあるのではないでしょうか。


