その幻想は服装をはるかに超えて広がっている。『アイビー・スタイル』の編集者マシュー・ロングコアはキャンパスそのものも魅力の一部だと考えている。現在の学生の多くは、小説『ハリー・ポッター』に登場する魔法魔術学校「ホグワーツ」のような体験を切望しているとロングコアは語る。「壮大な図書館、古くからの伝統、そして長く続く友情を育む社交クラブを備えた、インスピレーションに満ちたキャンパス環境だ」と言う。
その幻想とは単にそれらしい服装をすることではない。キャンパス、コミュニティ、一連の伝統、そしてそれを分かち合う仲間といった、その服が想起させる世界の中に自分の居場所を持つことだ。
若者の生活の大部分が画面を介して営まれている今、伝統的な大学生活を象徴するイメージが再び文化的な魅力を放っている。
そして、そこに興味深いパラドックスが生まれる。
大学をめぐるパラドックス
大衆文化が伝統的な大学生活をロマンチックに描く今、米国人はその経験に費用をかけるだけの価値があるのかという、ますます難しい問いを投げかけている。
大学の費用は多くの家庭にとって依然として大きな負担だ。学生ローンは高等教育をめぐる経済状況を一変させた。雇用主は学位要件を見直している。熟練技能職や学位以外の資格が再び注目を集めている。そして生成AIの登場によって、テクノロジーを活用してエッセイやコードを書いたり、数秒で情報を統合したりできる今、大学は「学生は何を学ぶべきか」という根本的な問いと向き合うことを余儀なくされている。
こうしたノスタルジーには居心地の悪い皮肉が潜んでいる。
寄宿学校、ボート競技のチーム、歴史あるキャンパス、美しく整えられた学生寮の部屋といった、現在ファッションや大衆文化の中にあふれているイメージは富や排他性と深く結びついている。伝統的な全寮制の大学生活はこれまで誰もが平等に手にできるものではなかった。そして現在、多くの米国の家庭にとってますます手の届かないものになりつつある。
しかし、そうしたイメージに込められた願望は本質的に排他的なものではない。自分の仲間を見つけたい、帰ってこられる場所を持ちたい、自分が来る前から存在し、自分が去った後も続いていく伝統に加わりたい、そして自分よりも大きな何かの一部だと感じたい。そうした願望だ。
だとすれば、アイビースタイルの復活は美学を超えた問いを投げかけているのかもしれない。高等教育の経済的な側面や存在意義がこれほど厳しく問われているときに、なぜ私たちは高等教育の最も伝統的な形態の1つに文化的な魅力を感じるようになっているのだろうか。


