──種への向き合い方にはどのような違いがあるのでしょうか?
日比野:何が咲くかはわからない「面白い種」があったとしましょう。アーティストはそれを見つけると、その種だけを見て何時間でもニヤニヤしていられるんです(笑)。「これ面白いな」と、それだけで遊べる。一方のカルチャープレナーは、その種を見つけたら、「どんな土に植えよう」「別のものとかけ合わせてみよう」「誰と育てよう」と考えていく人なのかもしれない。
でも、最初に種を見て、面白がって、ドキドキする感覚がないと、そこから先には進めない。だから僕は、カルチャープレナーもある意味ではアーティストだと思います。
宮田:アーティストは、日比野さんのいう「種」のように、社会がまだ価値だと認識していないものを差し出して、価値の生態系に「変異」を起こす人なんでしょうね。カルチャープレナーは、その価値を単に商品化するのではなく、得た利益や知見、権利を次のつくり手へ戻しながら、次の表現が生まれるための条件を整える人です。つまりアーティストが起こした変異を、一回きりで終わらせず、次の変異につないでいく。その生態系を手入れする人、と言えるのではないでしょうか。
AI時代に希少なのは「生態系を編む力」
──では、生成AIが知識や技術、表現まで担うようになった社会で、人は文化・芸術において何を担うのでしょう?
宮田:「問いをつくる」だけでは足りないと思います。これまで人間は、既存の価値体系のなかでうまくやることに多くの時間を使ってきました。知識を覚え、技術を身につけ、そのルールのなかで競争する。それらは生成AIがかなり引き受けていくでしょう。そうなったとき、人間にとって重要なのは、その価値体系自体を問い直すこと。さらに、何を選び、どう答えるかまでが問われます。しかも大切なのは、人間とAIを対立させないことです。「AIにできない人間の能力は何か」と考え続ければ、人間のできることはどんどん少なくなってしまうでしょう。AIも人が設計した価値生態系の一部。そのなかで自分たちはどんな価値を編んでいくのかを考えるべきです。
日比野:藝大でも、AIらしさと人間らしさが対話するような試みを進めています。今、僕が絵を描いているときの身体の動きをAIに学習させる実験を始めています。筆跡と同じように、絵を描くときにも自分では意識していない身体の癖があるはず。それをAIに学習させ、僕に返してもらえば、自分では気づけない無意識の身体のプロセスを知ることができるかもしれない。
AIを、自分の代わりに作品をつくるものではなく、「知らない自分」に問いを返してくれるパートナーにできるかもしれないと思っています。
──最後に、私たちはこれから文化・芸術とどうかかわっていくべきでしょうか?
日比野:僕はアーティストとして、花より種を大事にしてきたと言えると思います。花は咲けば、誰でもきれいだと思う。でも花が枯れたあとにできた種を見て、「これは来年どこへ行くんだろう」「別の場所に植えたらどうなるだろう」と想像できるかどうか。種には、これまでとこれからをつなぐ力があるんです。花が咲いた。きれいだった。枯れた。終わり。それだけでは、なかなか文化にはならない。種を採って、次にどうするかを考える。自分もその物語のなかに入っていく。文化というのは、当事者にならないといけないと思うんです。
宮田:その意味では、これから価値をもつ文化は、世界中に受け入れてもらうために「丸くした」ものではないのかもしれませんね。むしろ、その土地、その人、その歴史にしかないものを、固有性を失わずに受け継いでいく。その違いを消さずに、別の人や場所とつながりながら、次の担い手が異なる続きを始められる余地を残す。それがAI時代に人間が引き受ける、新しい創造なのだと思います。



