ライフスタイル

2026.09.24 14:15

「まちのケーキ屋」の減少は、私たちの社会に何を意味するのか?

stock.adobe.com

とすると、経済成長著しい時代にケーキという西洋文化に生まれた菓子に特有の「上級感」が漂い、生活での微調整役として大役を与えられることになった。そのため、逆に不幸の絶頂には他人の顔にホールケーキを投げつけるシーンがでてくるわけですね。この類は、ハリウッド映画でもよく観るので、幸福と不幸はセットで輸入されたのかもしれません。

advertisement

今のミラノで似たようなステイタスを求めるなら、缶コーヒーはバールでのカフェ・エスプレッソであり、ケーキはちょっと高級なチョコレートではないかと思います。ただ、これだとテーマとなるラグジュアリーとの関係を語るには弱いと一瞬思ってしまいます。だが、そこにこそ穴がある。これが新しいラグジュアリーを考えるにあたっての頭の切り替えポイントになります。

昨年12月、「郊外とラグジュアリーが重なる条件とは?」という記事を書きました。ラグジュアリーは大都市と田園風景の両極端に分かれることが多く、ベッドタウンの郊外はラグジュアリーの文脈に入ってこなかった。だが考えてみると、街のケーキ屋さんは、この郊外での生活に花を添える存在であったとも言えます。ほのぼのとした家庭生活を演出するに格好の役者であったわけですね。

ここで、しつこいようですが、もう一度日本のテレビドラマに戻ります。最近のドラマでは幸せな家庭生活を描くことは減っており、恋人をみつけること、結婚すること、子どもを産むこと、すべてにおいて負の面を強調する脚本が増えている(との印象を受けます)。それらを見ながら、これから家庭を築こうとする人たちのやる気をそぐなあと思います。そこに、ケーキという花を添える存在が減りつつあるとするならばなおさらのこと、ラグジュアリーの再考がリアルな課題に迫っていると実感します。

advertisement

ラグジュアリーの当事者とは、あくまでもラグジュアリーと認知する第三者が主人公であり、決して商品なりの提供者のキャッチフレーズではありません。そこで、あるモノやコトがラグジュアリーと思えるだろうコンテクストのデザインが大切なわけですが、郊外で「ケーキのような存在」がどれだけあり得るか、または「ケーキのような存在」と思わせるコンテクストとは何か? を探るのは、かなり挑戦的なテーマだと考えます。

最後に。以上のように書きましたが、これだけは言わせてください。モノではない、値段ではない。そうは言っても、自動販売機から出てくる缶飲料をラグジュアリー文脈に入れるのは、そうとうに厳しいですね。

文=前澤知美(前半)、安西洋之(後半)

タグ:

連載

ポストラグジュアリー -360度の風景-

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事