国学者・平田篤胤の教え
わたしが国学者・平田篤胤に出会ったのは小学5年生、祖母が亡くなって、再び祖母と会いたいと強く願ったときだった。しかし多くの問題から、亡くなった祖母に会うことは難しいことを知った。篤胤は、まさに死者との距離をどのように構築するかを考えた学者であったからだ。篤胤が明らかにしたのは、死者は死後消滅するのではなく、目に見えない世界である「幽冥界」へと移り、生者とは異なる仕方で存在し続けるという可能性だった。そして、この死者の世界の出来事を「幽冥事」と呼称し、生者の出来事である「顕明事」から、はっきりと異なるものとして境界線を引いた。
篤胤にとって死者とは、どういった存在だったのか。現代的な言葉で言い換えたならば、夜の窓ガラスを思い起こすのが良いかもしれない。窓ガラスは、明るいところから暗いところは見えないが、暗いところから明るいところはよく見える。篤胤が言うには、明るいところから暗いところが見えないように私たちは死者たちの世界を覗くことはできないが、暗いところから明るいところを見るように、死者からは私たちの世界がはっきりと見えている。私たち生者からは見えないだけで、死者たちは私たちと一緒に存在しているのだ。篤胤が発見したのは、このような死後世界だった。
したがって、死者とは本来見えないものなのである。そして、もしそれを見えるものとするならば、相当の準備をしなければならない。そのため、「グリーフボット」の事例から考えるべきなのは、生成AIによって技術的に復元された死者の神学的位置付けだろう。その呼び起こした死者が、アーカイブによる再現でしかないならば、「幽冥界」にいるはずの本当の死者の霊魂を慰霊することになるのか。また一方で、「グリーフボット」が真剣に死者と対話しようとしているならば、再現は何か別の邪霊を呼び込んでしまうというような神学的な問題を生じさせないのか。
生者の側である「顕明界」の論理だけでは、さばききれない問題が実は、山のように潜んでいるのである。
世俗主義が興隆し、この神学的問いへの免疫がない社会は危険だ。死者を偽り騙って政治を行おうとする者も出てくるだろう。未曾有の技術革新の只中で、平田篤胤の「幽冥界」を再び学ぶことにより、死者との距離を見つめ直さなければならない。
いしばし・なおき◎2001年、神奈川県生まれ。東京大学大学院宗教学科在学中。論考「〈残存〉の彼方へー折口信夫の『あたゐずむ』から」で、第29回三田文學新人賞評論部門を受賞。平田篤胤を中心とした国学思想を専門に研究を進める。編著『批評の歩き方』などに寄稿。


