「知財のプロが見れば今の倍の発明があるでしょう」——。九州大学の学内研究シーズ支援ファンド。画に描いた餅とさえいわれたアイデアが動き出す。
池をください、と龍は神に願った。池さえ与えられれば後は自ら清水を湧き出させ、村人を守りますから。神はその願いを聞き入れた。今なお湖底からの湧水で満たされ、観光名所となっている大分県由布院の金鱗湖に残る伝説である―。
「『九大イノベーション・チャレンジ・ファンド(ICF)』は、創業前支援をするための枯れない泉です」
そう語るのは古橋寛史。九州大学のイノベーションを担う子会社・九大OIPの執行役員・ディレクター(サイエンスドリブンチーム)である。
泉が湧く窪地はファンドのICF、池は最初の資金とみなせる。「泉」の仕組みは資金の循環だ。まず九大と九大OIPなどで設立する有限責任事業組合(LLP)のICFが起業を目指す研究者を支援し、創業のタイミングで新株予約権を取得する。新会社が成長軌道に乗った段階で、これを投資家等に売却し、その対価により回収した資金を次の創業前支援に充てる。このプロセスを繰り返すのだ。
「知財のプロが見れば今の倍の発明がある」
古橋には忸怩(じくじ) たる思いがあった。「大学単独の研究成果として年間100件以上の発明の届け出がありますが、先生方が自分では発明だと気づいていない優れた研究成果が多いんです。知財のプロが見れば今の倍の発明があるでしょう」

ただでさえ九州大学は全国の大学における知的財産権の収入で、毎年上位を占めている。20年度は約6億円で2位。「今の倍の発明」のインパクトは大きい。
大学発スタートアップ数はどうか。調査によれば23年度の九大発スタートアップ数は119社で12位にとどまっている。東京大学がずば抜けて420社。慶應義塾大学が291社で2位、京都大学が273社で3位。
論文の注目度、インパクトでは九大のレベルは高いと言える。それなのに、起業数が10位以下に甘んじているのは、古橋が言葉ににじませるように、いかにももったいない。
九大は18年からギャップファンドなど独自の支援を行い、起業を増やしてきた。しかし年に10件程度しか事業化支援ができていなかった。

埋もれたままの知財をもっと幅広く、永続的なファンド運営により支援できないか。「今の倍の発明」を起業につなげられたら-そんな発想から生まれたのがICFである。
このファンドからは、研究成果を事業化するアイデアの実現可能性を確かめる概念実証(PoC)などにかかる費用を助成する。さらに、「九州・沖縄圏の大学と九大OIPなどで設立したスタートアップ・エコシステム『PARKS』が集めた人材が約800人います」(古橋)。資金と人材の充実により、約30~40件に支援件数を拡大する予定だという。
しかし元手がなければ資金の循環は始まらない。
池をどうやってつくるか。出資や寄付を呼びかけたが、交渉はスムーズには進まなかった。九大OIP代表取締役の大西晋嗣が語る。
「IPOやM&Aなどのエグジット(出口戦略)を目指さず早期の資金回収を行い、循環させるモデルは画に描いた餅と思われるのか、最初は暖簾に腕押しでした。今回のICFはこれまでに存在しない枠組みなので、理解されにくかったのです」
大西は九州大学総長の石橋達朗を頼った。
石橋の教授時代の専門は眼科だ。「企業のお偉いさんは年を取ると大体目が悪くなって九大病院を受診する」らしく、財界の重鎮と知己を得た。さらに九大病院長を経て総長の職に就いてからは要人とも交流を深めた。要するに石橋は地元に顔が利く。
「きれいなスキームをつくって説明しても自分には動かせなかった」と大西が謙遜すると石橋は「泥臭く汗をかく仕事は私が(担った)」とおどける。
もちろん不正な手段を使ったわけではない。共創基金が地域の産業経済の活性化や雇用創出につながる事業であることを根気よく説明したに過ぎない。地道な折衝とトップ営業が功を奏し、25年1月21日に三菱UFJ銀行が共創基金に5,000万円の寄付を表明した。

大西は石橋の熱意に打たれたと振り返る。「資金集めに奔走していたころ、シカゴ出張中の総長から『何かできることはないか?』と連絡がありました。現地は真夜中の時間帯です。総長の覚悟が伝わりました」石橋にも自身の研究成果の事業化にかかわった経験がある。
「我々の時代は産学連携の組織もなく、資金集めに苦労したので、若い人がチャレンジできるシステムの必要性を痛感しています」
ICFは資金規模25億円。大西によれば金融機関や企業がこのファンドに興味を示し始め、問い合わせが相次いでいるという。
オックスフォードモデルとは何か
国からの補助金が減り、どの大学も厳しい経営を強いられている。九大OIPやICFはこの困難な状況を打破するために設立された。日本初の試みだが、参考にしたモデルがあるという。
「イギリスのオックスフォード大学が設立したOUI(Oxford University Innovation)です。大学発の特許のライセンス管理、スタートアップ支援、ファンド運営などを行う産学連携組織で、ここが我々OIPの組織設計や今回のファンド設立のモデルです」(大西)
大西は大学や公的研究機関の研究成果の技術移転を支援する関西TLOに身を置いていたころから、OUI(の前身Isis Innovation)、とりわけその社長を務めたトム・ホッカデイ(Tom Hockaday)に注目していた。
「2000年代初頭、産学連携では京都大学など日本のトップレベルの大学のほうが、オックスフォード大学よりも優れた成果を出していた。ところが彼がIsisの、2016年からはOUIの社長だった時代にあっという間に日本を追い抜いてぐんぐん引き離した。当時から彼の経営手腕はすごいと思っていました。その後、九大で産学連携組織を一からつくり直すことになって、オックスフォードのモデルが使えるかもしれないとひらめいたんです。それでホッカデイにコンタクトを取り、アドバイザーになっていただきました」
それ以来、大西ら九大OIPのメンバーはオックスフォード大学に視察に行ったり、月に1回程度オンライン会議をしたりしてホッカデイらの指導を受けるなどしている。
ホッカデイの最初のアドバイスは「プロになれ」だった。
「VC(ベンチャーキャピタル)にスタートアップ支援をお任せするのではなく、大学本体が子会社をつくり、その会社がプロとして資金運用を担い、創業前支援を行い、VCと対等な関係を築くべきだと言われました。それがイノベーションエコシステムだろう、と」
大西は大学の存在意義が以前とは変わったと指摘する。
「イノベーションを起こすことが求められるようになりました。そのため、今や基礎研究であっても、当初から社会実装を目指すことが不可欠です」
VCや他企業との対等な関係、長期的な資金支援がなければ、柔軟で迅速な意思決定はできず、活動の継続もままならず、したがってイノベーションを起こせない。知財のライセンスアウトなど、単に大学が企業に知を伝達するだけでなくイノベーションを起こすプレイヤーに生まれ変わるには、補助金への依存度を減らし、自立性と主体性を高めなければならない。そのために生み出されたのが九大OIP(24年4月)、そしてICF(同11月)と言える。

先端半導体開発への「光」
九大は自立への道をすでに踏み出している。その一歩を象徴するのが、24年7月、九大OIP傘下の第1 号「開発法人」として発足したEUVフォトンだ。
高性能なスマートフォン、コンピュータ、AIチップなどに使われる最先端のプロセッサで採用される半導体の回路は、集積度を高めるために数ナノメートル(ナノは1mmの100万分の1)のオーダーで形成される。この超微細回路に欠かせないのが極端紫外線(EUV)だ。
ただしEUVはエネルギーが高いためつくるのも操作するのも難しく、高度な専門技術が必要とされる。日本企業は、先端半導体向けの新材料を開発するために海外の研究所に委託してEUVによる検査・評価をしてもらわざるをえず、時間も経費も余計にかかった。

EUVフォトンはこの課題を解決するために設立された。同社はEUVで材料を検査・評価するサービスを提供する。これにより企業は新材料の開発を国内で迅速に、かつ低コストで進めることが可能になる。
同社の資金調達を担う九大OIPディレクター(ビジョンドリブンチーム)の坂本卓司が語る。

「九大には EUVの量産導入に先立つ20年前から研究していた長い歴史があります。EUVの扱いや解析に慣れた研究者が複数おり、EUV発生用光源もありました。この人材と設備を材料開発に生かせるという発想で会社設立に至りました」
サービス内容やEUV技術関連の動向を伝える同社主催の研究会は毎回盛況で、東京など全国から企業の関係者が福岡の会場に足を運ぶ。
「我々のサイトを見て、新規参入を検討していると声をかけてくれる企業も海外を含め数社あります」
潜在的な力をもちながら、EUVによる検査・評価技術の利用の障壁の高さゆえに新材料の開発を断念していた企業にとって、EUVフォトンの登場は大きなビジネスチャンスとなる。TSMCの熊本進出も追い風になるだろう。
九大には長い歴史で蓄積された研究成果と、社会に広く応用可能なシーズがある。EUVフォトンに続く開発法人も年に数社ずつ設立される予定だ。
スタートアップ支援の基盤が整備され、枯れない泉も築かれつつある。今後期待されるのは、九大を起点とするイノベーションが次々生まれることだ。金鱗湖の龍のように、九大は九州全域を潤し続けることができるだろうか。
ふるはし・ひろふみ◎九州大学学術研究・産学官連携本部 知財・ベンチャー創出グループ教授。理学博士。関西TLOでは大学知財の権利強化やスタートアップ支援を担当した。九大OIP執行役員も兼務する。
いしばし・たつろう◎九州大学総長。専門は眼科学。九州大学病院長を経て2020年10月より現職。教授時代、研究チームが発見した薬剤を知財化し、実用化を目指すスタートアップの起業を後押しした経験ももつ。
さかもと・たくじ◎九大OIPビジョンドリブンチームディレクター。EUVフォトンの資金調達を担う。九州大学 学術研究・産学官連携本部 産学官連携推進グループ助教。文部科学省入省後、内閣府出向を経て23年九州大学に出向、25年に転職。事業シーズの事業化に取り組む。