近年注目される生物多様性をビジネスに接続する――飽くなき好奇心が「発見」した環境と観光を掛け合わせた実験的事業の現在地を探る。
「そっちに魚が行った!」
熊本県の北東部に位置する菊池市。今から24年前の夏の日差しの下で、10歳の少年だった楠田武大(くすだ・たけひろ)は、菊池川の浅瀬に膝まで入り、水面下をすべるように泳ぐアユの群れを網で捉えようとしていた。
「ほら、追い込め!」
大人たちの掛け声を聞きながら、周りの子どもとともにバシャバシャと水をかき分けて魚を追い回す。毎年恒例の子ども会のイベントは楠田少年にとって、夏の何よりの楽しみのときだった。菊池川の水源である菊池渓谷は、日本の名水百選にも選ばれる自然豊かな美しい観光地として知られる。休みの日には友人と渓谷へ川遊びに出かけ、木漏れ日にきらめく清流に飛び込み、岩陰に潜むサワガニなどの生き物を探すのも至福の時間だった。
「そんな自然とのふれあいが、後に地球の水循環や生命環境に深い関心を抱くようになった原点だったと思います」
2025年2月の今、MUIC Kansai(一般社団法人関西イノベーションセンター)でエグゼクティブマネージャーを務める楠田はそう振り返る。
県内の理数科がある高校に入学した楠田は、物理の授業で学んだ論理的な思考過程に無類の面白さを感じた。グループ研究で取り組んだ光波に関する実験でも、ミリ単位での違いを細かく測定しながらコツコツと結果を積み重ねる。その地道なプロセスに共感を覚えた。
やがて「将来は、環境省に入って、科学的な知見をもとに環境問題の改善に取り組む道に進んでみたい」と考えるようになり、筑波大学の生命環境学群地球学類に進学する。大学3年生のときに東日本大震災による福島第一原発の爆発事故が起きると、福島各地の森林や土壌からサンプルを採取し、放射性セシウムの移行状況を調べる研究に没頭した。
大学院ではさらに大きなスケールで環境問題を捉えようと、世界の自然公園や野生動植物の保護区の管理・運営体制について調べた。そうした研究をするうちに、楠田は「役人になるよりもビジネスの領域のほうが、環境問題により大きな貢献ができるのではないだろうか」と思うようになった。
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生まれながらの「研究者マインド」
就職活動ではコンサルティング会社など多数の企業から内定を得たが、最終的に三菱UFJ銀行(MUFG)に入社を決めた。それは金融取引を通じて、さまざまな業種・業界の企業と中長期的な関係を構築でき、グローバルな観点でも影響力を持てることが理由だ。MUFGで働き始めた楠田は、新橋支社のあとで、大阪の営業本部に異動した。そこではアソシエイトとして、融資案件の稟議を通す資料作成や担当企業の動態をモニタリングすることが主な業務となった。この仕事が、楠田の生まれながらの「研究者マインド」を刺激することになる。
「取引先のお客様や、その競合企業について調べているうちに『大企業とスタートアップが協業して、新しい事業を始めるケースがすごく増えているな』と感じたんです。それがうまく行くこともあれば、いつの間にか終わっていることもある。その違いはどこにあるんだろう、と知りたくなったんですね。
その頃にちょうど、従来型の金融サービスに加えて、銀行だからこそできる顧客先への事業戦略提案を考える研修を受けたことも、”スタートアップ研究”に熱が入るきっかけになりました」
そんなタイミングで見かけたのが、MUIC Kansaiの社内公募だった。大企業である自分たちMUFGが母体として創る社団法人が、スタートアップと組んで観光領域のオープンイノベーションを進めていく。自分がそこで何ができるかはまったくの未知数だったが、新しい研究テーマが見つかったときのようなワクワクする感覚を覚えた。
「関西いきもの駅スポ」が生まれるまで
2020年7月よりMUIC Kansaiの立ち上げにジョインした楠田が手掛けた代表的なプロジェクトの一つが、2024年4月に京都大学発のスタートアップ、株式会社バイオームとともに、関西の大手鉄道会社5社を巻き込んで実施した「関西いきもの駅スポ」である。バイオームは『環境保全をビジネスにすること』を掲げているベンチャーで、生物多様性領域に関わるサービスを自社で開発・運営している。その一つがスマホのアプリ「Biome(バイオーム)」だ。Biomeは身近な動植物の写真を撮影・投稿し、ゲーム感覚でコレクションできるアプリであり、動植物の名前を判定できるAI機能などが搭載されている。生き物好きな人たちを中心に100万近くダウンロードされており、Biomeを通じて集められた生き物のデータは、国内最大級のリアルタイム生物分布ビッグデータとして成長を続けている。
知人を通じてバイオームの担当者とつながった楠田は、彼らとともに「ネイチャーポジティブ」という世界で注目が集まる新しい環境についての概念を、ぜひ関西でも広げていきたいと思うようになった。
「ネイチャーポジティブとは、生物多様性が失われていくことを止めて、回復させていくことを意味します。企業にとっては、社会・経済活動によってあらゆる生物に対してプラスの影響を与えることを目指す概念になります。CO2削減をはじめ、企業の生産活動における環境への配慮はいまや常識となりました。しかし生物多様性の保全についての企業の取り組みはこれからです」
今後はネイチャーポジティブに対する貢献が、グローバル企業や投資家にとって重要な判断材料となっていくことが確実視されていると楠田は述べる。そうした世界的潮流を背景に楠田とバイオームが鉄道5社に対して提案したのが「関西いきもの駅スポ」だった。
「関西いきもの駅スポ」の参加者には、関西の鉄道沿線を巡りながら、アプリを通じて楽しく生き物のデータを集めていただきます。集まったデータは、駅の所在地情報などと組み合わせて分析を行って、各沿線の垣根を越えた生物多様性の見える化を進めていきます。鉄道各社にとっては、そうした”自然資本”の魅力を発信していくことで、沿線の地域の不動産や観光などの価値をさらに向上できると考えました」
「関西いきもの駅スポ」は、一般市民へ広く呼びかけた結果、4月から6月末までの約2ヶ月間で、157,424件(12,141種)もの生物発見データを収集することができたという。これは当初の想定をはるかに超えており、西日本最大級の大規模な市民科学による生物調査となった。
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世の中の「目詰まり」を解決していく仕事
その他にもMUIC Kansaiに加わってからの4年半で、楠田はバラエティに富んだ仕事を進めてきた。一見すると方向性はバラバラだが、多くのプロジェクトに共通するのが、今後の世界で大きな可能性を期待される、最新のデジタル技術を活用していることだ。以前には、デジタルデータに唯一の資産性を持たせることができるNFT(Non-Fungible Token:非代替性トークン)技術を使って「旅行の記念バッジ」を作り、多数の駅で配布する「NFT関西周遊」プロジェクトを実施した。実際のバスガイドの代わりにVtuber(ヴァーチャルyoutuber)がアバターのバスガイドとなって、旅行先を案内するバスツアーの展開も進めている。
「そうした最新技術についての知見とスキルを持っているスタートアップを探してきて、彼らと一緒に社会課題解決のための新しいアイディアを生み出し、大企業との協業を進めることを繰り返しています。MUICの同僚たちは『”そういうよくわからない新しい系”は楠田が担当』と思ってるっぽいですね(笑)」
なぜネイチャーポジティブやNFTといった「新しいこと」に取り組むのか。それは楠田にとっての仕事のモチベーションが「知的好奇心」に他ならないからだ。
「子どもの頃に自然に畏敬の念を抱いてから、ずっと『この地球ってどういうメカニズムで動いているんだろう』という好奇心が、途切れることなく続いているんです。
そのメカニズムには自然や環境だけでなく、グローバルなビジネスや国際政治、または会社の組織力学といったミクロな視点も含まれます。世の中がどんなふうに動いて、何が原因で目詰まりしているのか。それを仕事を通じて探求し、解決していきたいんですよね」
そんな学究肌の楠田は、仕事の相手と仮説について議論して「論破」されることに、すごくワクワクするという。
「スタートアップの経営者や、協業を提案する大企業の担当の方に、『まだこういう点が甘いですよね』と指摘されることって、自分の研究論文の不備を指摘してくれるのと同じだと思うんです。自分の知識不足や、足りない点を指摘して補ってくれる、そんなありがたいことはないと思っています」
幼き日に渓谷の自然の中で見つけた、生物図鑑でも見たことがない生き物に覚えた興奮。そんな「新種」の感動を求めて、楠田は今日も新しい”研究”に取り組んでいる。
くすだ・たけひろ◎一般社団法人関西イノベーションセンター エグゼクティブマネージャー。熊本県出身。筑波大学大学院修了後、三菱東京UFJ銀行(当時)入社。都内支社、大阪営業本部を経て、社内公募にて現事業に参画。XR・Web3.0・アバター関連プロジェクト、観光マーケティング事業、鉄道連携のネイチャーポジティブ事業、などを担当。
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