沢井製薬が開発したアプリ「SaluDi(サルディ)」は、広がり次第では日本の健康寿命を延ばすうえで大きな役割を果たす可能性を秘めている。その誕生と飛躍の裏側に迫る。
「PHR」×「医療現場」を次の柱に
2023年10月23日。ジェネリック医薬品最大手である沢井製薬は、急きょ記者会見を開き、胃炎・胃潰瘍治療薬「テプレノンカプセル50mg『サワイ』」で、品質試験における不正が15年から継続的に行われていたことを明らかにした。溶出試験を通過するために、試験開始前に古いカプセルから新しいカプセルに中身を詰め替えて試験を行っていたというのだ。同社はすでに市場に流通している製品の自主回収を行っており、「テプレノン」以外の製品については問題がないことが確認されている。また今回、上層部からの指示など組織的な関与は認められなかったが、現場で法令を無視した状態が続いたことから、社長直轄の企業風土改革プロジェクトを立ち上げ、ガバナンスの再構築、コンプライアンスの徹底といった再発防止策を策定。現在、信頼の回復に努めている。
ただ、サワイグループの信頼回復には経営の安定化も必要だ。医療費抑制の観点から急成長したジェネリック業界だが、原料費の高騰や為替など取り巻く環境は厳しさを増しており、追い打ちをかけるように、国による薬価改定が2年に一度から1年ごとに変わるなど、利益を圧迫する状況は業界全体の問題になっている。
こうした背景から、業界トップの沢井といえども、医薬品以外に新たな事業の柱をつくる必要性に迫られていた。
沢井製薬ではすでに新たな事業の開拓を進めており、そのなかで特に有望なのが、体重や脈拍、血圧、歩数、カロリーといった多くの健康に関するデータ、いわゆるPHR(Personal Health Record)を管理するアプリだ。今やスマートウォッチなどから気軽に手にすることができるようになったPHRだが、その情報の多くは個人のなかだけで完結している。
そこで沢井は、PHRに加え、健康診断結果や病院での診察記録などを一括して管理し、医療の現場と共有することで未病、予防につなげていこうと、PHR管理アプリ「SaluDi(サルディ)」を開発。企業や自治体と連携しながら事業拡大を目指している。
このアプリの開発責任者で事業起案者でもある竹田幸司(サワイグループホールディングス理事、グループIT部長)は、「沢井製薬の企業理念である『なによりも患者さんのために』という言葉を医薬品以外でも実現し、柱の事業にするためにも、このプロジェクトを成功させたい」と熱く語る。
社長の木村元彦も「“患者さんのために”と言うように、誰かの役に立つことが、結局は、仕事にとっても人生にとっても幸せにつながる。その原点に立ち戻るために、この会社を、社員が人間的・能力的に成長していく場にしたい」と新たな挑戦を後押しする。
SaluDiが新規事業のプロジェクトとしてスタートしたのは2020年のこと。前年の19年がちょうど創業90年の節目であり、翌21年にはホールディングス制への移行も控えていた。
そうしたなかで、新たな中期経営計画の目玉として新規事業の募集が行われた。事業テーマをあえて設けてはいなかったものの、既存のビジネスともつながる未病や予防に関する提案がその大半を占め、結果として、健康食品や医療機器といった事業とともにPHRのアプリ、現在のSaluDiが新たな事業として選ばれた。
竹田はその狙いについて「せっかく製薬会社がトライするわけですから、本人の同意は必須ですが、取得したデータを医療の現場で活用されるようにしたかった」と話す。
「すでに多くのPHRのアプリがありましたが、医療機関と連携するようなものはなかったので、チャンスはあると思いました。健康寿命を延ばすことにつながればジェネリックと同様に医療費を抑えることにも貢献できると思ったのです」
このアイデアは、米国の関連企業に勤める同僚の話がヒントになったと明かす。その同僚は中西部ミネアポリス在住で、厳冬期だけ暖かいテキサスからリモートで仕事をしていたという。
「彼はテキサスにいるときも、ミネアポリスのかかりつけ医にオンラインで診察をしてもらっていましたが、処方された薬はテキサスで受け取っているというのです。PHRをミネアポリスの医師と共有しているからこそ可能なのだと聞き、いつか日本でもこのような医療を実現したいと思いました。臨床の現場で活用できれば、もっと新しいサービスを生むこともできる」
竹田にとっては、実にいいタイミングで、温めてきたプランを実現するチャンスが巡ってきたというわけだ。
こうして開発したアプリは、イタリア語の「Salute(健康)」と「Disco(記録)」の組み合わせからSaluDiと名付けられ、21年10月、準備万全でスタートした。
「コミュニケーションツール」になったSaluDi
だが、そのまま順調に広がったわけではなかった。当たり前だが、社員の数が多ければ多いほど、うまくいくと思う人がいれば、そう思わない人もいる。特に懐疑的だったのが営業部隊だ。
現在、竹田とともに自治体や企業とアライアンスを組んでSaluDiのさらなる飛躍を模索する三宮健(沢井製薬営業統括部長)も、ローンチ当初は懐疑的だった。当時、名古屋支店長だった三宮は、SaluDiが営業の後方支援になるはずと勧められたものの、「医薬品卸のなかですでにPHRを扱う会社があり、そこがまさに撤退したばかりだったので、正直、広げるのは難しいだろうなと思っていた」と振り返る。
「病院の先生方に提案してみたものの、先の撤退事例もあったので『途中でやめられては困るから』と、導入には慎重な意見が大半でした」
ところが意外にも、懐疑的だったはずの営業本部が率先して動き出す。それは、自分たちがトライアルでSaluDiを使い始め、すぐにこのアプリが便利で、使いやすく、患者にとって有益だとわかったからだった。
機器とアプリをBluetoothでつないでおけば、体重や歩数などが自動で入力されるので手間もかからず、何より、日々のバイタルデータが可視化されることによって行動が変わる。三宮も「私自身、単身赴任で一人暮らしだったのですが、意識的に歩くようになりました。あと少しで1万歩を達成しそうだったら、少し遠回りをして帰宅したりして」と笑う。
「食事を撮影し始めるようになると、茶色いものが多いな、と自分で食事の彩りまで考えるようになり、気づけば体重が減っていたんです」
営業本部自らがトライアルを行ったおかげで気づいたことも多い。例えば、これまで逐一記入が必要だった血圧手帳。SaluDiなら血圧測定器と連携しているので、書かなくて済む。患者にとってメリットになることを、営業目線ではなく患者目線で医師に提案できるようになった。
一方、SaluDiを使ってくれる医師からも、データを患者と一緒に見ながら「最近、よく歩いていますね」「血圧も落ち着いてきましたね」など、コミュニケーションをとる時間が増えたとポジティブな意見を得られるようになり、導入はもちろん、アプリの改良点も提案されるようになった。
沢井が目指す「地域医療への貢献」を実感できることも、営業としては積極的に動くモチベーションとなり、良い循環が生まれていった。さらに、SaluDiのユーザーが拡大した理由として、無償提供だったことも大きいと三宮は語る。
「当初は、『途中から有償になるんでしょ』『課金制になるんでしょ』などと言われたりもしましたが、患者さんと医療関係者とをつなぐインフラの部分に関してはお金をとりません、と明言したことで安心していただき、導入の追い風になった」
はじめは2年間で1000件の医療機関への導入を目指していたが、結果的に、約半年でその目標を達成しようとしている。
暮らすだけで「健康をサポートしてくれる街」
営業の後押しもあり、ローンチから当初のターゲットである医師と患者には順調に浸透してきたSaluDi。今はさらに、企業や自治体を巻き込み地域社会にも変化を生み出している。例えば企業との連携事例では、ウェルビーイングの推進を目指して、日立システムズやインテグリティ・ヘルスケア、ANA X、サワイグループホールディングスの4社が、それぞれの強みを生かして、日本ウェルビーイングコンソーシアムを設立。隠れた経済損失といわれている健康損失を防ぐ、健康経営の支援を始めている。
TOPPANとは、SaluDiとの連携で、日常生活を送るだけで健康をサポートできる体制づくりを行っている。同社は、肌温度などを取得するミラーと、床埋め込み型の体組成計を組み込んだIoT洗面空間を開発し、生活の動線からPHRデータを取得できるサービスを販売している。データ収集に強みをもつTOPPANと、医療機関とのつながりが強みの沢井が組んだからこそ実現した協業だ。
また、福岡県飯塚市や兵庫県養父市といった地方自治体では、SaluDiの導入が、市民の健康維持に役立っている。なかでも、デジタル田園都市国家構想に参画する養父市では、SaluDiで市民の健康への自覚を促すだけでなく、市の保健師や地域医療と連携することで、希薄になりつつある地域コミュニティを再び結びつけようとしている。
企業や自治体との連携の先頭に立つ竹田は、「各自治体や企業、当社と、それぞれに強みがある。それらをかけ合わせ、さらには医療機関と結ぶことで、従業員や地域の安心につなげたいと考えています」と、未来の可能性に思いを馳せる。
「例えばTOPPANさんとの取り組みでは、デベロッパーやショッピングモールなど他業種との協力を広げていくことで、街全体が健康をサポートする仕組みが生まれるなど、できることはさらに広がると考えています。将来的には、高齢者世代や子育て世代など、世代ごとの要望にも応えられるでしょうし、小児科や産婦人科さんとも連携を深めていけばSaluDiが生涯にわたって健康に貢献できるアプリになれる」
とはいえ、まだまだ課題も多い。
「現状では多くの医療機関が賛同してくださっていますが、目指すのは、PHRを医療の現場、臨床の現場で活用してもらうこと。そのためには、もっと導入件数も増やしていかなければいけません」と竹田。SaluDiの機能強化にも余念がない。
「健康には『食事』『運動』『睡眠』が大事だといわれています。食事は撮影すればカロリーが測れるなど、クリアしている。あとは運動や睡眠の機能強化を図っていく予定です」
最近では、長崎県で地域医療連携の公式アプリになるなど、地域医療との連携も始まった。医師が少ない離島などでは往診もなかなかできないため、PHRを医師と患者が共有していることが、急病など緊急の対応が必要なときには必ず役に立つ。
社会に広くSaluDiを浸透させ、人々の健康を支えていくことが、沢井製薬の信頼を回復し、「なによりも患者さんのために」という企業理念を実現することになるはずだ。
沢井製薬
https://www.sawai.co.jp/
SaluDi
https://www.sawai.co.jp/saludi/index
「『SaluDi』のストーリーには未来が見える」
沢井製薬 木村元彦 代表取締役社長インタビュー
2023年6月、経営トップに就いた木村社長。製薬の生産現場に長年身を置いてきた木村だが、就任4カ月目にして大きな正念場を迎えた。信頼回復に向けたこれからのかじ取りと、「SaluDi」をはじめとする新規事業への期待について聞いた。──新規事業を始めたきっかけは。
木村 2021年のホールディングス化にあわせて新規事業の道筋を立てましたが、その裏には柱であるジェネリック医薬品事業が厳しい状況にあったことは否めません。安定した経営を行うためにも、新たなビジネスの開拓は必須だったわけです。ただ、そうしたなかで今回、皆様にご迷惑をおかけしたのは痛恨の極みであり、今は再発防止に全力を尽くしています。
一方で、当社はリーディングカンパニーとして安定供給を守らなければいけない立場にあります。在庫を積み増しして対応するなど、責任を果たしていきたいと考えています。
──業界も変化が必要ですね。
木村 業界自体が限界に来ていることは確かです。ご存じのようにジェネリック医薬品は特許切れの医薬品を飲みやすくするなど、開発し直した製品ですが、毎年の薬価改定もあるので、多くの新製品を出さなければ生き残れません。生産体制を含めたこうした状況を、解決に向けて業界全体で取り組んでいるところです。
──「SaluDi」についてはどういった感想をおもちですか。
木村 健康食品や医療機器分野などとともに新規のビジネスとしてスタートして、まだ探りながら進めている段階ですが、SaluDiに関していえば、よい手応えを感じています。医療機関からの反応もよく、ダウンロード数も順調に増えています。住民の健康に課題をもたれているからか、自治体からも多くの問い合わせをいただいており、今後が期待できる事業だと思っています。
──SaluDiを伸ばしていくために必要なことは。
木村 仕事はストーリーです。なぜ我々がやるのか? なぜ今のタイミングなのか? 環境やリスクも含めた客観的な視点で、事業をストーリーで語ることができなければ、周囲の納得も得られなければ、うまくもいきません。
そういう意味では、SaluDiはストーリーがしっかりしていて、抱えるリスクも高くはありません。患者さんのためになり、既存のビジネスにもつながっていく道筋が見えています。とはいえ、何事も順調にいくときばかりではありませんから、ステップ・バイ・ステップで着実に進めていくつもりです。
──「仕事はストーリー」という考え方は、いつ身につけたものですか。
木村 前職で海外勤務だった時に、現地のスタッフから何をするにしても「WHY?」と、必ず意味や理由を聞かれたことがきっかけです。その答えがあやふやだと、自分のなかで考えがまとまっていないということですから周囲から突っ込まれますし、決してうまくはいきません。だから私も、よく周囲に「なんでなん?」と尋ねています(笑)。
──今後、沢井製薬をどのように導いていきますか。
木村 社内的には、社長直轄の企業風土改革プロジェクトが立ち上がりましたので、コンプライアンスの徹底を図りながらも、会社を「自分の成長と会社の成長とをともに喜びあえる場」にしたいと思っています。一方、社外的には、SaluDiのような新規事業を伸ばしていくとともに、ジェネリック医薬品の事業にも真正面から取り組んでいくつもりです。
少量多品種の生産体制や薬価改定など課題は山積みですが、未来を予測しながら課題を解決し、進んでいくしかないと思っています。
きむら・もとひこ◎1957年生まれ。大阪大学大学院薬学研究科応用薬学修了後、82年、住友化学工業(現・住友化学)に入社。2016年5月に沢井製薬に転じ、生産統括部長。その後も役員として生産部門を統括する本部長を務め、23年6月より現職。ホールディングスでは専務執行役員を務める。