ソフトウエア開発者として抱いた疑問が転機に
市谷は元プログラマーで、SIerやインターネットサービスの大手企業でスキルを磨いていった。その後プロダクトマネジメント、サービスプロデュース業にも従事。順調にキャリアを重ね、プログラマーとしてアジャイルの実践経験を積んでいくが、いつしか「つくること」に対する壁にぶつかる。「ソフトウエア開発はどうやってうまくつくるかというHowが本分。しかし技術やプロセスがどんなによいものでも、誰かの役に立たなければ意味がない。開発においてアジャイルを活用できていても、価値のないものをつくっているのではと疑問を抱くようになりました」
理想と現実のギャップを埋めるには、開発した技術が本当に必要とされているものなのかという仮説検証が欠かせないと感じた市谷は、独立を決断。2014年に自らの会社を起業し、仮説検証とアジャイルを両輪とした方法論を実践していく。
「仮説検証は、いまでこそUXリサーチなどの手法として定着していますが、当時はまったく理解されていませんでした。従来と比較すると時間もコストもかかるため、組織の中で実行するにはハードルが高い。ならば自分で会社を立ち上げ、あらゆるリスクを背負い込んでやるしかないと思いました」
市谷はまず、新たな技術開発に理解を示すベンチャーなどを相手に地道に実績を上げていく。そして大企業の案件も請け負うまでに成長を遂げた。しかし、ここで新たな問題が立ちはだかる。
「大企業や政府、地方自治体といった日本の伝統的な組織は、『これまでの判断基準』が強く存在し続けていて、やり方を変えられない。こうした組織こそ、新たな価値とは何か?どのようにして価値を探索するのか?といったケイパビリティを芽生えさせることが重要だと気づきました。それが後に組織を変革するための『組織アジャイル』というアプローチを生み出すきっかけになりました」
仮説検証とアジャイルによって伝統的な組織を変える
市谷は17年にレッドジャーニー(旧エナジャイル)を設立。大企業などが抱える組織課題に伴走するDX支援事業へと舵を切り直した。では市谷が提唱する「組織アジャイル」とは何なのか。その問いに対し、市谷は「探索と適応を繰り返し、状況に適した意思決定と行動を取ること」と力説する。
「企業がDXを行う目的は、提供価値の変革と組織内部の変革です。変革によって新たなケイパビリティを獲得するためには、From-To(どこからどこに行くのか)という観点を持つことが不可欠です。
実際にToは自由に理想を描くことができますが、Toだけを見ていても変えることはできません。From、すなわち現在の立ち位置を把握し、見つめ直さないことにはToに至るまでのギャップが分からないままだからです。ギャップが分からなければ、どのようにFromからToへ向かえばよいかが掴めない。そして、このFromからToへの道筋も一本ではなく、正解ルートが見えているわけではない。だからこそ探索と適応を繰り返し行う『組織アジャイル』が必要なのです」
組織的な探索適応のスパンは、2週間、1か月、3か月といったサイクルで行う。常に方向を正す機会を得ておくことが、企業や組織を取り巻く環境の変化に適応できる企業体制へとつながっていく。
市谷は、「探索と適応を繰り返す先に新たな勝ち筋が定まり、『最適化』に向かうことになる」と話す。だが、そこで完結ではない。日々変化する社会や環境に応じて、再び探索と適応の機会を得ていくこと。再び「最適化一辺倒の罠」にまらないようにする必要がある。つまり、探索適応とは終わりのないサイクルとなる。
とはいうものの、組織が大きいほど足並みを揃えることは難しく、「組織アジャイル」の遂行は簡単には進まない。
そこでレッドジャーニーではクライアントに対し、アジャイルの構造を家に見立てて、徐々に広げて行くコーチングを実践している。
「伝統的な組織ほど、チームでの仕事に慣れていません。なぜなら、『サイロ化』と呼ばれる状態のように、コミュニケーションを最小限にすることで効率性を上げるという最適化が定着しているからです。そこから脱却するために、まずはアジャイル・ハウスの1階にあたる小さなチームで動く仕事のやりかたとして、アジャイルの考え方や動き方を取り入れます。その後、次のステップとなる2階へ。ここが探索と適応を実践する段階です。そして最終段階の組織そのもの変化へ。
1・2階でチームや部署内において、状況に適した判断が迅速にできるようになっても、組織の母体による最終決定が遅くては意味がありません。そうならないよう、組織運営そのもののアジリティを高めていくのが3階で行う挑戦です」
当然、上の階になるほど組織の規模が大きくなり、難易度が上がっていく。そこで重要となるのが、ハウスの基礎に当たる「アジャイルマインドの理解」だ。
協働のメンタリティが組織に取り戻されるように、レッドジャーニーの社員はクライアント組織の一員となり、同じ位置に立って伴走する。一般社員、マネージャークラス、そして幹部・経営陣と、各層に合わせたレクチャーやコーチングを行うほか、各企業に合わせて共通言語となる「アジャイルガイド」を作成するという。
「我々も組織の一員になることで、組織特有の風土や制約などを肌で感じ、何から始めればよいのかという優先順位の整理ができます。また、共通言語となる『アジャイルガイド』は、その組織のFromとのつながりを意識してつくります。
具体的には、組織の外から新しい言葉をむやみに押し付けるのではなく、その組織の中に『すでにある言葉』で可能な限り翻訳します。アジャイルを『自分たちごと』にできるようにする。そのために言葉をあわせる、組織内での意味をそろえる。取ってつけたようなガイドでは意味がないのです」
レッドジャーニーが制作するアジャイルガイドは、いわば組織が目指す場所を指し示す「コンパス」のような存在になる。組織によってFromが異なる以上、必要なガイドも組織によって異なるのだ。
「特に伝統ある組織には過去からの『理念』が存在します。ガイドではその理念を尊重し、整合を丁寧に考えます。アジャイルに取り組むことは、決してこれまで組織として大事にしてきたことを根底からすべて変えることではありません。組織が目的とする場所に辿り着くための、道筋を新たにつくっていくことなのです」
社員はすべてアジャイルのプロフェッショナル
20年にアジャイルDX事業を立ち上げてからわずか3年あまりで、すでに100近くの組織に携わってきたレッドジャーニー。同社の最大の強みは「社員全員がアジャイル実践者」だと市谷は胸を張る。「組織におけるアジャイルの適用はまだまだこれからです。しかしアジャイル自体は、元々ソフトウエア開発において始まりを得て、育まれてきたやり方であり、あり方です。組織アジャイルを進めていくにあたって、ソフトウェア開発におけるアジャイルの実践経験は拠りどころとなります。そのため私たち全員が、組織に圧倒的に不足するアジャイルの実経験を補っています。我々のミッションはクライアントの組織の中に入って伴走すること。外からただ教科書的な理想論を押し付けるのではなく、Fromを理解し、Toを捉え、その間の道のり、ジャーニーを一緒になって探索適応していきます」
探索・適応・最適化を繰り返す「組織アジャイル」の定着には、長期間組織に寄り添うことになる。
「組織を変えていくことは、そう簡単なことではありません。ですが、組織の中に新たなマインドと、ケイパビリティの手がかりが得られれば、そこを起点に自走が可能になります。DXに乗せて、最初から全社アプローチを取ることもあります。その一方、起点づくりとしては、まず一チーム、一部門からでも始める意味があるのです。もっというと一人からでも。変革の芽をつくることができると信じています」
10名弱という少数精鋭の同社は、最適化一辺倒によって生じた「組織や社会の分断」をつなぎ直すというミッションに挑んでいる。クライアントとともに長期で伴走していくスタイルは非効率にも思えるが、それでも「『組織アジャイル』を認知させることが使命なので、非効率でも続けていく」と断言する市谷に、最後に今後の展望を聞いた。
「探索と適応を組織の動き方のひとつとなるよう定着させたい。From-Toの描き方は組織によって十人十色で、正解はひとつではありません。そのため同じ方法はふたつとしてありませんが、事例を増やしていくことで、『組織アジャイル』の仕組み自体を効率化できればと思っています」
コロナ禍やウクライナ侵攻など、予期せぬことが起こり得る時代。企業は未曾有の事態に直面した際に、リスクを最小限に抑え、さらなる成長に向かうためには「動ける組織」をつくっておくことが大切だ。その組織づくりとなる探求・適応・最適化を繰り返す「組織アジャイル」の存在価値は、今後ますます高まっていくだろう。
いちたに・としひろ◎レッドジャーニー代表取締役。サービスや事業について、構想から練り上げていく仮説検証とアジャイル開発の第一人者。「正しいものを正しくつくる」「組織を芯からアジャイルする」(共にビー・エヌ・エヌ新社)など著書も多数。23年6月17日、最新刊「これまでの仕事 これからの仕事 ~たった1人から現実を変えていくアジャイルという方法」(技術評論社)を上梓した。