「start up」とは、(新しい活動やビジネスを)開始する、(コンピューターを)起動するといった意味を有する言葉だ。「startup」あるいは「start-up」と綴って名詞になれば、新興企業や新規事業を指す。いずれの意味でも、いまの日本にスタートアップが必要であることは相違ない。
生活者発想の
オープンイノベーション
スタートアップ(=新興企業あるいは新規事業)をいかに生み出し、グロースさせていくか。そのためのリソースはあるか。もしも、必要なリソースを有し、一緒にスタートアップを創り上げて、スケールしていく道のりも共に歩んでくれるような組織があるとしたら——。「それがスタートアップ・スタジオです。ハリウッドの映画スタジオをイメージしてみてください。スタジオには、監督・脚本家・演出家・カメラマン・照明スタッフ・編集者など映画という作品を生み出すのに必要な資本が集まっています。単に作品を内製できるだけでなく、ヒットへと導くナレッジやノウハウまでも蓄えています。そうしたスタジオの機能を果たし、新興企業や新規事業の創出・成長を担うのがスタートアップ・スタジオです」
教えてくれたのは、quantum(クオンタム)で代表取締役社長 共同CEOを務める及部智仁だ。quantumは、2016年4月に創業したスタートアップ・スタジオである。メンターとして外部から指導する、あるいは外部からさまざまな資本を注入していく様相が強めのベンチャーキャピタルに対し、スタートアップ・スタジオは事業担当者や起業家と共にスタートアップそのもの(商品や企業)を(ゼロから)創り上げていく活動スタイルを取る。スタートアップとの関わり方がより濃密で、よりクリエイティブと言えるだろう。 「quantumは、『クリエイティビティを軸とした事業開発によって、新しいプロダクトやサービスを創り出しています。クリエイティブを強みとして謳いながら親身にスタートアップを支援できるのは、私たち自身が博報堂グループのスタートアップだからです。さらに言えば、私たちは博報堂のDNAである『生活者発想』を大切にしているからです」
そう語るのは、同社で取締役 共同CEOに就く川下和彦。ときとして事業担当者や起業家は、自分たちが有する技術・発想と社会の接点が見えづらくなっていたり、その関わり方が飛躍的な進歩を迎えるダイナミズムやメカニズムを解していなかったりする。博報堂グループは、40年以上にわたって生活者の研究を続けているシンクタンク「博報堂生活総合研究所」を有する。人間を単に「消費者」として捉えるのではなく、多様化した社会のなかで主体性をもって生きる「生活者」として全方位的に捉え、深く洞察してきた歴史がある。
及部は09年あたりから、既存の広告会社の枠組みを超えたビジネスモデルを模索してきたという。そうしたなかで出会ったのが、米カリフォルニア大学バークレー校経営大学院教授のヘンリー・チェスブロウが説いた概念だ。03年に同氏は社内外の知的な協働でイノベーションを起こす必要性を説く「オープンイノベーション」の概念を著作で発表している。及部は、12年に同氏による『オープン・サービス・イノベーション』という著作の翻訳も手がけた。
「12年当時、私は『オープンイノベーション』こそが、これからの社会を大きく飛躍させる概念になるという確信を得ていました。その想いから、日産自動車やNEC、JAXA、技術系のベンチャーなど国内13社の仲間を集めて、電力・ガス・水道といった既存のライフラインに頼らずに暮らせる住宅を構想したオフグリッドハウスのプロジェクトを実行しました。実際に『ミライニホン』というオフグリッドハウスを販売できた実績から、当時のTBWA HAKUHODOの座間社長から太鼓判を頂き、quantumを立ち上げています」
個人や個社で成し遂げられることには限りがある。仲間と共創することにより、ブレイクスルーは果たされる。智恵と技術を出し合ってモデルハウスを創り、展示会に出展し、実際に販売した経験が理論的・理念的な支柱になり、14年に社内カンパニーとして、16年に法人格としてのquantumが生まれた。創業時に掲げた最上位概念は、「Human Centered Open Innovation」。すなわち、「生活者を中心に据えたオープンイノベーション」を目指す会社として産声を上げている。
幸せな社会に
アクセラレーションする
いま、quantumは「あらゆる才能を重ね合わせ、まだ世界に存在しないプロダクトをBuildする」というミッションを掲げている。まさにその通りの事例がある。プロジェクト責任者として全体を統括した川下が教えてくれた。「バスケットボールなどのスポーツ用品事業で知られるモルテンには健康用品事業部があり、そこで新たなクルマイスを開発しました。ユーザーインタビューを重ねたところ、お困りごととして『タクシーに乗車を拒否されることがある』という問題が挙がりました。さらに調査を進めると、『乗車のサポートをしようにもクルマイスの扱い方がわからない』という単純な心理的負担に起因するものだとわかりました。『クルマイスに乗らない一般の人にとってのユーザビリティ』という視点が、実は大変に重要だという結論に至ったのです」
これは、慧眼である。クルマイス開発は、「乗る人」のことを考えて軽さや丈夫さに重点を置きがちだ。そうした乗りやすさは当然のこととしながら、quantumは「サポートする人」にとっての使いやすさを新たな価値としてクルマイスに付加したのだ。
「14年に社内カンパニーとして誕生して以来、私たちはスタートアップ・スタジオとしての機能を果たすべく、あらゆる才能を内部に保有する努力を積み重ねてきました。結果として、quantumにはAIからクルマイスまでさまざまなプロダクトやサービスの開発を担えるエンジニア、デザイナーが集まっています。新たな視点、本質的な着眼点を切り出してくれるマーケッター、プロダクトやサービスの魅力を的確に伝える場所と作法を知るコピーライター、アートディレクター、映像制作技術者なども含めて、人的資本の宝庫になっていると自負しています」
いま、quantumは新規事業のインキュベーション、ベンチャー組成(共同創業、スピンアウトインetc.)、ベンチャー支援(ハンズオン支援+クリエイティブ投資)など、さまざまな活動事例のなかでスタートアップ・スタジオとしての本領を発揮している。これまでに約75社にもおよぶ大企業と共に、「クリエイティブ×テクノロジー×ビジネス」という掛け合わせで事業を創造し、出資も視野に入れて事業開発にコミットしてきた。
「22年5月には、医療用カテーテルで高いシェアを誇る医療機器メーカーの朝日インテックとジョイントベンチャー『walkey(ウォーキー)』を設立しています。同社で開発したwalkeyは、専用デバイスとアプリを活用した自宅エクササイズとラボでの指導により、『100年歩ける身体づくりを目指した歩行専用トレーニングサービス』のプロジェクトとして始動しました。出発点は、『人生100年代時代に健康的に歩けるようにするには、どういった事業が考えられるか』というゼロベースでのアイデア出しです。そこからスタートして、朝日インテックとquantumで合弁会社を設立するに至り、代表取締役社長にはプロジェクト発足時よりチームをリードしてきたquantumの前執行役員、渡辺達哉が就いています」
quantumは構想力だけでなく、ハードウェアとソフトウェアの実装力を生かして、クルマイスから高精度な無人給仕ロボット、さらには人生100年時代を支えるトレーニングに至るまで、さまざまなプロダクトやサービスを産出し、ベンチャーを連続的に創出している。
ベンチャーへのハンズオン投資では、quantumは「水問題の構造的な解決」に取り組むWOTA株式会社を創業当初より支援をしている。ハードウェア・エンジニアによるプロダクト開発支援のほか、クリエイティブ・ディレクターによるブランド設計やアートディレクション支援、またquantum独自の手法であるvision prototyping(ビジョンプロトタイピング)を用いて「人類の淡水利用の問題を解決する」というWOTAのビジョンを脚本化し、ステークホルダー向けにソリューションを伝えるムービー開発を行うなど、出資だけにとどまらない支援を続けている。直近では世界初の住宅向け水再利用システムである「小規模分散型水循環システム」に取り組む WOTAに追加出資を実施、ソフトウェア、ハードウェアも実装できるquantumの強みを生かし、成長支援を継続していくという。
社長の及部は、どのような未来を見据えているのか。
「私たちは、『なめらかにスタートアップできる社会へ』という言葉をビジョンにしています。若くて優秀な起業家はもちろん、日本にいる30代から50代の優秀な人材が会社や大学を辞めたり、孤立したり、断崖絶壁のなかで起業するのではなく、企業発、アカデミア発でなめらかに起業できる。または、定年退職後に起業して第2、第3の豊かな人生を歩んでいく。停滞することなく、そのような新陳代謝を起こし、みんなでアップデートしていく社会こそが、幸せな社会だと思います。地方も含めて、幸せな社会へとアクセラレーションしていくのが私たちの役目です」
quantum
クリエイティブ×テクノロジー×ビジネスを融合した新規事業開発によって、新しいプロダクト、サービス、ベンチャーを連続的に創り出すスタートアップ・スタジオ。2016年の創業以来、ベンチャービルダーとして自社事業を立ち上げるとともに、75社を超える企業やスタートアップ、大学等の研究機関と取り組み、多様な新規事業を生み出している。また、世界最大のアクセラレーターコミュニティであるGAN(Global Accelerator Network)が運営するGlobal Startup Studio Network(GSSN)にアジアで最初にスタートアップ・スタジオとして認定された組織でもある。起業家精神を大切にするカルチャーの中、ハードウェア・ソフトウェアを問わない実装力とハンズオン投資&支援力を駆使して、あらゆる形でスタートアップの創出に挑戦している。
https://www.ask.quantum.ne.jp/
およべ・ともひと◎quantum代表取締役社長 共同CEO、東京工業大学イノベーションデザイン機構特任教授。世界トップクラスのスタジオを目指してquantumを2016年に創業。母校の東工大では大学発ベンチャーを連続的に生み出すために、アカデミア起業のプラットフォームの運営を支援している。直近では「みんなのスタートアップスタジオ(日経BP)」の監修・解説やスタートアップスタジオ協会の理事として起業のエコシステムの活性化に尽力する。
かわした・かずひこ◎慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。2000年、博報堂に入社。マーケティング部門、PR部門を経て、quantumに移籍。クリエイティブディレクターとして新規事業開発を担当。クリエイティブ担当役員などを経て、22年4月1日から取締役 共同CEOに。放送作家・たむらようことの共著『がんばらない戦略』(アスコム)など著作も多数。